2012 年 5 月
- 777 世田谷村日記 ある種族へ
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五月十六日
6時半離床。今日は夕方山形のN社長が来室する。久し振りなのでどんな話しが聞けるのか楽しみだ。最近は同業の人種に会う事は、ほんの数人を除いてほぼ無くなった。会っても話しが限られており退屈なのと、何の前向きな話しにもならないので自然にそうなった。もともと知り合いの数がそれ程に多い社交家では無い。だから地方都市で頑張っているN社長のような方との付合いは貴重だ。いつも新しい話しが聞ける。その代りわたしも新しい話しをしなくてはならない。相手は事業家であり、ギブ&テイクの関係である。その方が関係も明快でスッキリするのだ。
山口勝弘先生から葉書が昨日届いていた。どうやらわたくしの企てようとしている計画への提案の形をとった御自身のアイデアの売り込みである。しかし感動した。売り込みといっても単純な営業ではない。アーティストの生を賭けた営みである。御自身が述べている如くに「一種のメディア・テーマパーク」の構想である。でもこの構想は2011.3.11の大災害そして福島原発事故の今現在は古めかしく感じられた。電気を大量に使用するテクノロジーアートへの拒否感らしきがわたくしの内に生まれているのを知る。山口勝弘先生の作品歴のうちではヴィトリーヌまでが今では精一杯であろう、わたくしには。返信を書いてみる。そう伝えたい。でも畏敬を持って一葉を書こう。
先生や同じたまプラーザにおられる宮脇愛子さんの老人振りには目を見張るものがある。
人間の身体が衰え、あるいは傷つき壊れて後の生き方のモデルであり得よう。芸術の、そして芸術家の効用が歴然と社会に、そして多くの人々に伝わるのではないだろうか。あの御二人に自分の作品自慢の話しではなく、普段の生活の話しをネットに流してもらったら、とても人々には為になるのではないか、と思って昨日の深夜、宮脇愛子さんのページを初めてのぞいてみたら、それはすでにあった。山口勝弘さんとの一部対談がONされていた。インタビューの方がどうやら芸術関係の人なので、それで話題が狭かったが、より普通の今の生活の話しを流してもらったら良かった。
とは言え、それはかなわぬ夢であろう。つまり、それをするには御二人共に芸術家の矜持を持ち過ぎている。それを今更脱ぎ捨てろとはわたくしだって言えやしない。他人の聖域に土足で踏み入るようなものだ。
でも愛子さんのインタビューの中で「博之くん」が出てきたところには笑った。イヒヒと笑った。ニューヨークから帰って日活アパートで制作を続けていた時に今や建築史家として大家である鈴木博之さんが宮脇愛子さんのところへ制作のお手伝いで出入りしていた話しがサラリと語られている。この話しは前にも聞いてはいたので決して新鮮なモノでは無いのだが、「博之くん」という感じがまことに良ろしいのである。
わたくしだって「博之くん」と呼ぶ権利は持つ身ではある。確か、一つ二つ年長であるが、まだ面と向って「博之くん」と言ったためしは無い。不自由だ我ながら。今度会ったら、せいぜい努力して「宮脇さんがね、博之くんと言ってるよネットで博之くんと」どさくさまぎれに言ってみたい。どうしてわたくし奴は史家に弱いのであろうか。ズーッと山口勝弘先生の作品をわたくしの作品、例えば公園のようなモノの内に包含してしまいたいという夢は持ち続けている。宮脇愛子さんの「うつろい」の次の作品だって出来ればそうしたいとさえ思うのだが、わたくしの力が及ばぬままである。
N社長に会ったらそんな夢の実現化に向けた話しもしてみたい。
舞台はやっぱり福島であろう。
石山研のサイトをのぞいたら、ドリトル先生動物病院の最新ヴァージョンが少しはましになっていた。五月女くん御苦労さん。遊びと仕事の境界線を旅しているのだ、燃焼して欲しい。
シュツットガルトの石山研展にはどうしても2本の映像動画作品を展示に組み込みたいので、そのロケーションを想定して作業されたい。今夕、N社長にも見せながら山田くんも交えて短い打合わせをしたい。16時半スタートです。山田は新しい五月女くんのアシスタントで電通出戻りの三十男である。今夕4時半よりのN社長との会合で、5月27日の気仙沼安波山植樹祭の計画、および気仙沼緑のストラクチャー計画の概要、そしてシュツットガルト展の概要を手渡し出来るように願いたい。佐藤くん担当、ダナンの話しも一部したいのでダナンのベトナムでの位置、及び当方での計画のロケーション他を2枚程にまとめておいて欲しい。
- 776 世田谷村日記 ある種族へ
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五月十五日
7時離床。昨日は早朝のメモに記したのが全ての一日であった。良く歩き、良い人に会ったりもしたが記すべき事とも思えない。省略する。
最近の日記を読み直してみると、実に早朝の3時間程が全てであるような気がする。この3時間はわたくしなりに良く考え、良く想いを巡らせているようにも思う。無為に視えてはいるが一向にそうではない。ジイーッとして考え、記し、手を動かしているだけだが、脳内の動きは活発で、時に世界を駆け巡る。宇宙に迄は飛遊せぬのが我ながらまだ良いとも思う。
早朝の3時間、今日は少し寝過ごしたけれど6時から9時前迄、夜明けから朝までの陽光が差し込んだり、差し込まなかったりの中で考えるべき事もない時はこうやって無理矢理にボールペンを走らせていると、やがてポーッと頭の中に灯がともる事もある。こんな日常なら指さえ動けば恐らく死ぬ迄は続けられると思うし。
世田谷村の梅の樹を植木屋さんが切った。桜切るバカ、梅切らぬバカの伝からである。おかげで、保存緑地の先の南の家、その北の大きな窓が丸見えである。つまり、こちらも丸見えであろう。ボーッと日記を書いているのなんかも見られているのかも知れない。カーテンがきらいでなるべくカーテンで視界をふさがぬようにしているが、家人はすぐに閉め切る。南の家の方も、世田谷村の梅の木がスケスケになり、お互いの視線の緩衝帯になっていたのを、それが失くなり、恐らく70メートルは距離があるのだが、わたくしが窓近くに寄るとサッとカーテンが閉められる。その途端に緊張する。
他人の生活の一部をのぞくという後ろめたさからであろう。
コンピューターに私生活の一部を記して10数年になるが、決して少なくは無い読者の方々も、千に一つのやっぱり後ろめたさを持ちながらコンピューターをのぞいて下さっているのやも知れない。
最近はわたくしも他人のページを度々のぞく習慣がついてしまった。
『マルセル・デュシャン』の如くにのぞき穴からのぞく、のぞかせるという風はなく、コンピューターのボーッと自光するスクリーンをおおっぴらにのぞくのである。おおっぴらであろうがなかろうが、これはのぞきの一種、変種である。
わたしが、良くのぞくのは同じ世田谷に住んでいるらしい横尾忠則さん自身の日記である。面白くも、つまらなくもない。でもその短さが絶妙である。
つまらぬ区分けに過ぎぬが横尾忠則さんの如くサブカルチャー系のスターアーティストは、自身を常に露出しないと不安になるだろうし、露出し続けるとイヤな気分にもなるだろう。
その按配が短い日記となって表現されていて、時にヘエーッと思ったりもする。
絶版書アニミズム紀行7がようやく100冊程を売り上げた。
残部は120冊程である。もう少し売ってから次の紀行8に進めたい。
テーマは決してマニアックなだけのモノでは無い。今に最深層の問題の一つであろうと目星をつけての旅に出ている。中途で止める事はしない積りではあるが普通の出版社であれば倒産しているのだろう。でもこの店は実にたまプラーザの山口勝弘ゆずりの第二号店であり、倒産しようにもできない仕組みにはなっている。山口勝弘は度々書くが今は不動の人である。
これも又、昨日山口勝弘のページをのぞいたら、よもやと思ったら存在していた。先生は空気投げを打ったのだ。
わたくしの山口勝弘ギャラリーが転載されていて、世田谷村日記の一部もそこにあった。読み直してみたら妙に新鮮なのであった。変な時代である。
6月末迄にベトナム・ダナンのマスタープランの第一ステップをまとめなければならなくなった。又、近々ダナン大学の学長さんが室にいらっしゃる予定も組まれたようだ。現実と夢の境界線を歩いている。何処まで渡り切れるか、わたくしにも先は視えてはいない。
15日の朝に15日の日記を書いてしまうという、チョッと意識した試みをやってみている。これも続けばいいのだが。
- 775 世田谷村日記 ある種族へ
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五月十二日
12時過渡邊くんと打合わせ。13時OB松本くん来室。
14時五月女くんと「新しいヴァージョンの動画」をつきっきりで進める。わたくしはコンピューターのむしろ不自由さを知らぬので勝手な要求をするのであった。でも根本はやはり貯えている知見と想像力との組合せの問題であろう。16時迄貼り付いてコラコラとやったので五月女くんは又頭痛再発?新ヴァージョンには法隆寺金堂に描かれていた壁画がインド・デカン高原のアジャンタ窟院からの遠い移動によるものだとの史実から始めている。
我々のサイトにその切手の図柄の映像が突然登場しているのはそんな理由からである。
アジャンタから少しばかり離れたエローラの窟院群の中心から外れた小僧院が今のところ主舞台になっているので、その理由らしきをどうしても説明しておきたいと考えた。
でたら目はイヤなのだ。
この新ヴァージョンは重量のある世界と無重量の世界の境界をゆこうとしている我々のドンキホーテ振りを示そうとしている。今になって昔伊豆松崎町の小集落・岩地でなした小プロジェクトが2012年の気仙沼・安波山プロジェクトに結びつこうとしているのを知る。こういう事があるので、かろうじて自分を信じることができる。
17時久し振りに烏山長崎屋で小休。オジンがすっかりやせて小さくなっているのに驚きつつも、人間の生命力の強大なのを実感する。オバンがこのぶんじゃ、わたしの方が先にポックリゆきそうだというグチを聞く。宗柳で夕食をとろうとして窓際に座った。
向かいの家のオヤジは時々この日記に登場するタマという猫とモヘンジョダロの遺跡で遊びたわむれている変な、でも良さそうな人物なのだ。そのオヤジに見つかって、オヤジつかつかと店に入ってきて、ヅカヅカとわたくしの前の席に座り、とうとうとしゃべり始める。
タマと二人、否一人と一匹の毎日にやっぱり疲れてたまには人間としゃべりたいのであろう。
つまり、わたくしはタマの代わりである。
タマの治療代が、エーッ120万円にもなる話しや、タマの体が弱いので特別仕立の注文品で、これもまた金がかかる話し。そしてとどのつまりはタマとはもう夫婦みたいなものですという話し。それを一人でガーガーとしゃべりまくりうるさいのなんの、へこたれるばかりであった。宗柳のオヤジも厨房からノコノコ出てきて、オレのメンテナンスより金がかかってるな猫の方がとつぶやく。
しかし、このタマのオヤジの孤独の深さは測り知れないものがあるな。いささか不気味になり、タマの性別はオスだよねと確認してしまう。夫婦みたいなもんですというので気になってしまったのである。わたくしは全く俗人の極みである。
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五月十三日
7時過離床。メモを記し新聞を読む。テキサス・レンジャースのダルビッシュが5勝目をあげたようだ。どうやら試合途中で雨が降り2時間ほどの中断を経て、それでも続投しての勝利で、レンジャースの監督はその意気に感ずるの談話を発表した。長い中断で一度仕上った体を持続するのはそれ位に大変なのだろう。
でもテキサスだなあと思う。
義理と人情を計りにかけりゃ、義理が重たい男の世界♪のアメリカ中西部版である。ジョン・ウェインはデュークと呼ばれていた。親分さんである。フランク・シナトラやディーン・マーチン等イタリア移民の、チョッとマフィアの影があった子分達の面倒を良くみた。「リオ・ブラボー」ではまだ青臭かったリッキー・ネルソンの似合わぬ二丁拳銃の面倒までみた。
リッキー・ネルソンは遂にエルビス・プレスリーになれなかった男で、しまいにはそれでも全米をプライヴェート・ジェットで巡演、つまりドサ廻りの人生であった。そのジェットが墜落して死んだ。あの映画はまさにテキサス版義理人情いろは編であった。
ダルビッシュはメジャーで彼に向いたチームに入ったような気がする。ヤンキースではこんな監督談話は得られなかったろう。
これも準周縁の文化なのか。
余計な事だけれど、プライヴェート・ジェットで全米をドサ廻りしていたリッキー・ネルソンはどんなにリクエストがあっても彼の昔のヒットソングは決して演らなかったらしい。会場からそれでブーイングが湧いたとしてもである。アメリカ中西部、すなわちテキサス・ヒューストンなどに残る準周縁文化のこれも一つの典型であろうか。
今日は日曜日であり、2階のソファーにゴロリと横になって、何故か加藤周一氏の『高原好日』などを拾い読みしている。加藤氏には磯崎新、宮脇愛子さんの軽井沢の家等で何度かお目にかかった。何故いきなり思い出しているのかと言えば、加藤周一の眼の端厳さ鋭さを思い出すからだ。ジョン・ウェインの晩年は肺ガンを押し切っての西部劇出演であった。それこそたそがれの老ガンマンの役であり、その眼は鋭い諦念にみなぎっていた。加藤周一さんの眼は終生医者の眼であったように思う。ジョン・ウェインは終生西部劇のスターであり続けた。アメリカ文化に於ける西部劇とは何であったのか。
午後は世田谷をブラブラして過し、20時半世田谷村に戻る。
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五月十四日
昨夜サイトをのぞいたらXゼミナール、「作家論・磯崎新16」に注釈がつけられていた。木の葉隠れに注釈がつくかどうか楽しみにしていたのだかパスされている。木の葉隠れとは、の注釈にチャレンジしていただきたい。高踏な意味もさりながら、横山光輝作『伊賀の影丸』にもこの忍法は登場している。似たようなものは更に古くは赤胴鈴之助の真空切り、ひいてはあの星飛雄馬の大リーグボール、柴田練三郎の『眠狂四郎』円月殺法にまで類を及ぼしていたのではあるまいか。横山光輝に関しては我絶版書房の印刷屋さん担当氏が異常なマニアであり、尋ねればとうとうと話してくれるであろう。
又、作家論・磯崎新13、エピソード3に※4注釈も附加されている。大前田栄五郎(1783-1874)である。二川幸夫氏が自らを例えて大前田と呼んだ文脈と少々異なるけれど、参考にして頂ければと思う。
- 774 世田谷村日記 ある種族へ
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五月十一日
7時離床。少しばかりひんやりする風が吹いているが晴れている。
本日早朝、「作家論・磯崎新16」が、まだ注釈がつかぬままではあるがサイトにONされた。原稿は19迄渡しているのだが、わたくしの手直しも多々あり担当者はご苦労であろう。注釈は更に大変なエネルギーが必要であり、おそらく一篇に一週間は要するだろう。注釈の出来不出来も楽しんでいただければ幸いだ。
先日もある筋(といっても警察ではないから御安心を)からエピソード3に登場する大前田栄五郎に注釈をつけろのブレイクがあったりもするのである。更には日本ヤクザのマスタープラン及び地勢図も注釈したらの声もある位だ。講釈師ならぬ注釈師も仲々大変である。でも天保水滸伝位は読んでいて欲しい。
今度の16では幾つか注釈師の知性、ユーモアの感覚を試すべく伏線さえ張ってある。それに注がつくか、つかぬかは原作者の密かな楽しみなのだ。
10時40分院レクチャー。今日より7回の現代建築名品シリーズとする。
第1回はイギリス型ハイテク、セインズベリー視覚芸術センター(Sainsbury Centre for Visual Arts)、ノーマン・フォスター。12時過より打合わせ。シュツットガルト展への追加出展品をチェックする。
ドイツ巡回展のテーマ、MAN MADE NATUREは昨年3.11以降石山研の方向を、つまり開放系技術論の軸を修正せざるを得ず、それを包含した上で併走させている思考である。脱原発を進めているドイツでどう受け留められるだろうか。
アニミズム紀行5、6、7を購入して下さった方々に中版の特別ヴァージョンのドローイングを描く。3枚描いた。仲々にエネルギーがいるが手は抜けない。アニミズム紀行6、6冊にもドローイングを描き込む。少しづつ買って下さる人も増えてはいるのだ。力を入れざるを得ない。
「ドリトル先生動物園病院倶楽部」の最新動画Five Birds in the Caveがやはりどうしても気に入らずに五月女くんに4つの方向のオペレーションを作り、いささかの相談をする。いよいよリアルなプロジェクトとの連結段階に突入させようと思っている。来週末には新ヴァージョンのモノが一作出来るだろう。又、シュツットガルト芸術アカデミーでのオープニングレクチャー、常設展示にも2点の動画作品は持ち込むつもりである。
18時過研究室発、新大久保近江家へ。難波和彦、鈴木博之両氏とXゼミナールの件で会合。仲々今の状況では展開させることも困難そうでマア自然に任せようかの如くの結論であった。小集合体の無理は禁物であろう。
20時了。21時前世田谷村に戻る。
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五月十二日
7時半離床。メモを記す。広島の木本一之さんより長文の手紙届いていて読む。良い手紙であった。木本さんの了解を得て、山口勝弘先生に木本さんを引合わせようと考えつく。まだ思いつきだ。彼は何かの時の山口勝弘のスピーチに涙する程に芸術家の気持の所有者である。芸術家の中の芸術家、山口勝弘は年相応に立派なワガママ老人であるが自由に現実の身体を動かすことは出来ぬ。不動の人である。その精神の一部を木本一之に継承させたい。
早速、山口勝弘、木本一之両氏に連絡する。山口先生は「ハイ、わかりました」木本さんは、仲々わかりようがないのであった。そりゃそうだろうが、でも鈍重さが彼の取得なのだ。南相馬への提案の件で安藤忠雄さんと連絡。気仙沼臼井賢志さんと短い相談。
- 773 世田谷村日記 ある種族へ
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五月十日
9時京王線稲田堤星の子愛児園メンテナンスで熊谷組スタッフと会い園長先生他と打合わせ。その後、厚生館愛児園に移り近藤理事長とお目にかかる。16時半世田谷村に戻る。
途中、日中友好そばの会(仮)について相談した。出来たら宗柳のオヤジを北京に行かせたい。
本日、久し振りに「ドリトル先生動物園病院倶楽部」のサイトが動いた。Five birds in the Caveのタイトルが附されている。担当の五月女くんが初めて独自にすすめて、わたくしは何の指示もしなかった。ただ、そろそろサイトを動かした方が良いと言っただけだ。動いたのがめっけものである。内容は良く解らない。ただCaveに登場した鳥が平和のハトみたいなのが気になった。
第1室のドリトル先生=宮沢賢治=イーハトヴの住人=東日本大震災の世界—の肩にとまっていたのはオウムであった。わたくしの第1室でのドローイングに描いた農場風景は岩手県陸前高田を想定していた。何の説明もまだしていないが、例えば陸前高田の、出来れば未来の姿の一部を描こうとしている。
陸前高田はかつて高頭祥八と言う芸術家が住みついていた。わたくしとはわずかばかりの縁があり、伊豆西海岸松崎町の那賀川のときわ大橋のたもとに25時を打つ時計塔を作った時に、その時計塔内の内天井に鳥を描いてもらった。あまり知られてはいないが高頭の秀作である。高頭さんはすでに亡くなった。現世ではあまり報われることのない芸術家であった。気仙沼の岩井崎の力士像が津波にも耐えて残り、地元ではそれが奇跡の如くに話しにのぼっているようだ。過日、気仙沼の臼井賢志さんと共にその岬の先端の力士像を実見して、良く津波に耐えて残ったと実感した。とめどもない事を記しているが、その高頭さんはフクロウの像作りが得意であった。
鳥は大地から自由である。大地震、津波からも自由だ。東日本大震災で亡くなった数多くの方々の無念は今も鳥の姿となり、それぞれの故郷の地の空を飛んでいるにちがいない。
その鳥達の眼に写る山の姿、そして亡くなった多くの方々の魂はやはり山へ帰ったのだろうと想う。そんな想いを込めて作成したドローイングであった。少し時間が経ったのでもう一度見返していただければとも思う。
気仙沼の安波山の森に出現する図形は気仙沼の「日ノ出凧」がこれも又鳥のように空へ舞い上がった姿をデザインした。
その鳥の眼になり代って山の風景を考えてみたいと思った。
だから、Five birds in the Caveに出現した鳥は、これはこれで良いが、オウムとフクロウと孔雀と極楽鳥と、そして無数の雀の一羽にしてもらいたい。そのように少し手を加えてもらいたい。
その具体的な方法として、つまり動画が現実と連結いしている、そうさせたいという気持を歴然として表現するには、松崎町のときわ大橋の時計塔の姿を、そして内部の丸天井の具体物としての鳥と、ある種の楽園の像、現実として在るモノを次の映像の中に繰り込むようにしてもらいたい。
ドローイング=夢は現実であり、現実も又、それが悪夢であろうとも夢なのである。という事を「ドリトル先生動物園病院倶楽部」のサイトでは表現したい。
更に、絵解きをすすめるならば、この試みはかつて松崎町のなまこ壁通りで試みようとした「ストリート・ミュージアム」プロジェクトの延長なのです。ストリート・ミュージアム計画の一部も絵葉書として残してあるので、また研究室に記録も残っているので参照されたい。
いささか、考えるところがあって私事を記し、同時に担当者への指示としたい。
明日の朝11日には「作家論・磯崎新16」がサイトにONされる。鈴木博之ブレイクにより、少しばかり急ぎ足に展開させたきらいがあるが、これも力を尽している。
6月にシュツットガルトにワイマールからツィンマーマン前バウハウス大学長が来て会う事になった。李祖原のハイライズ展の打合わせである。李祖原(C.Y.Lee)の夢も又、現実であり幻でもある。双方の世界を往環する生物の如きである。台湾政府、中国経済界の支援を望みたい。
- 772 世田谷村日記 ある種族へ
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五月九日
17時小田急参宮橋で佐藤くんと待ち合わせ。15分、近くの国立オリンピック記念青少年総合センターへ。安西直紀さんと合流。カルチャー棟大ホールでの中日青少年友好交流文芸晩会に出席。控室で日中友好協会関係の多くの方々に紹介される。1000名程の全日本中国留学生の集いである。会場は満員であった。
日本にはおよそ13万人程の中国人留学生がいるという。
全日本中国留学人員友好聯誼会の会長徐桐、副会長劉鳳龍両君に紹介される。
留学生達の民族芸能他を鑑賞。安西直紀さんの行動力大なるを知る。
どこ迄成長するのか楽しみである。
22時40分雨の中世田谷村に戻る。
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五月十日
7時離床。急いでメモを記す。今朝は9時に京王稲田堤の「星の子愛児園」にメンテナンスの打合わせに行く。
昨夜出会った中国人留学生の諸君達とは先ずは今月間近に予定している世田谷区馬事公苑でのせたがやガーデニングフェアに来ていただく事から交流を始めたいと決めた。東京都内ならば無理も無く留学生諸君も気楽に立ち寄れるのではないだろうか。
早速アレンジしてみたい。8時20分世田谷村発「星の子愛児園」へ向う。
- 771 世田谷村日記 ある種族へ
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五月八日
10時40分学部レクチャー。R.B フラー「宇宙船地球号操縦マニュアル」について。東北唐桑での劇場作りの6年間について。12時了。研究室で打合わせ。北京の李祖原と連絡がつく。気仙沼の臼井賢志商工会議所会頭と連絡、畠山さんより安波山植樹についての解説文送られてくる。良い解説に仕上っていた。これで気仙沼のこれからの活動の軸が出来たようなものだ。少なくともわたくしにとってはそうだ。
13時過日経新聞窪田直子記者来室。5月27日の安波山植樹に関しての取材。14時了。電話他が何かとせわしい研究室を抜け新宿長野屋食堂で昼食。ここに来ると時代が一気に1960年に戻る感があり何故だか気持が落ちつくのだ。幾つかの打合わせをスタッフとする。16時了。烏山へ、開店前の宗柳でオヤジの手料理をいただく。19時世田谷村に戻る。シュツットガルト芸術アカデミーでの石山研ドイツ巡回展の事など考える。
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五月九日
6時離床。石山研のドイツ巡回展は6月にシュツットガルトで開催される。6月のオープニングには出席する。マン・メイド・ネイチャーの主題が少しでも深まるように微修正をしたいと考え始めている。
8時過淡路島の山田脩二に電話する。家に電話したら、案の定いた。案の定とわざわざ言うのには訳がある。いつの事だったか前に電話で話したら、最近は酒量が減ったとつぶやいていた。わたくしは内心ホッとした。あの酒呑童子振りがこれからも続くとしたら、こちらも何がしかの対策すなわち三十六計逃げるにしかずを決め込むしかないかなと考えていた。
一年に何度か一緒に酒を呑むだけの仲でも、それが仲々に大変で、一度会う毎にこちらの寿命が、ガクリがクリと目減りするのが解る位に山田は酒を呑む。山田は大円という僧名つまり得度名を持つ坊主でもある。俺は何時死んでも良い、死ぬのは全く恐くないと、これは本当にそう思っているのが伝わるくらいの境地になってしまっている。マア動く仙人みたいな者である。電話をしたのは、もう日本中風に吹かれて旅をする気力、体力はあるまいと目検討をつけて、それでケイタイにでは無く淡路の自宅に電話した。予測通り自宅に居た。又も、メッキリ酒を飲まなくなったとの事。心なしかその声からも水気が抜けていて、少し心配する位であった。
やっぱり山田脩二はんは死ぬ迄立派な酒呑みであって欲しいと馬鹿なワガママを巡らせた。他人が酒呑み続ければ我身の安全を想い、呑まなくなったら、それはそれで残念がるという実に手のひらを返すが如くの自分本位振りである。
人間としたらはるかに山田の方が上であるのはとうに知ってはいるがその山田に水気が抜けてカカシならぬ、山田が動くミイラになってしまったら、これはカサコサと音がしてやはりうるさいだろう。
少しは酒を飲んで水気を取り戻していただきたい。
話しは山口勝弘さんの事になり、うーむ、周囲では一番先に倒れてたまプラーザにて不動の人として自ら幽閉的生活を送っている芸術家山口勝弘がとどのつまりは一番元気なのではないかのパラドックスが出現しているなと二人笑ったのである。三十六計倒るにしかずの世界にすでになっているやも知れない。
こんな事を日記に書いても山田はんはコンピューターをやらないから読むわけもない。
でも少し遅れて、いつも誰かが石山がこんな事を書いていたぞと山田に知らせが入るらしい。サイトのヤジ馬である。でも時にはそんなヤジ馬も世の役に立つ御時勢ではある。
心あらば伝えてよ、石山が山田が酒を呑まなくなったのを心配して、少しは呑めよと言ってるぞと。
- 770 世田谷村日記 ある種族へ
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五月七日
6時過離床。今朝は新聞が休刊日である。中途は省略し、17時過広尾の磯崎宅。鈴木博之さんのインタビューはまだ続いていた。多くの女性編集者ギャラリーで、中々華やかである。鈴木さんさぞかし面はゆいであろう。磯崎新は予想以上に元気であった。17時半編集者達去る。磯崎さんより今日の世間話の会の主旨が語られた。岩波書店の磯崎新全集の企画に、鈴木、石山も何らかの形で、つまり別冊か月報の形で参加する可能性に対しての打診である。
わたくしはサイト上で作家論・磯崎新を書き続けているので、その企画には参入できないだろうと答えた。鈴木博之さんは日本を代表する建築史家であるから良い形で磯崎新を現代史の中に客観化すべき方法を出したら良いのではないかと考えて、わたくしのやるべしの結論だけを短く述べた。
壁に架かっている写真が妙に気になり、席を立って鈴木さんと見入る。「これは謂れがあって、ブランクーシの彫刻だけれど、ブランクーシ自身が写真をとって、そしてモノクロを現像して、さらに枠まで自分で作ったものだよ」とのこと。ブランクーシ、イサム・ノグチ、R.B.フラーの人間関係が歴然と眼に写る如くの不思議な写真である。
18時半磯崎宅近くのソバ屋に移る。磯崎さんは焼酎のお湯割りをチビリと、我々はビールをいただく。皆酒量は減って実に好ましい。
わたくしは作家論・磯崎新に関していささかのインタビュー。
話しはいきなりR.B.フラーとマハリシの話しになり、5月21日の日食の話しへと飛び、磯崎新の眼が光り始める。ここ数日で書いたばかりの作家論・磯崎新に自信を持つ。いずれ御本人の実体よりも論の方が先行する、つまり現実を超えて現実を連れてゆくようなところ迄ゆきたいものだ。
21時半、世間話の会修了。家に帰る磯崎さんと十字路で別れTaxiで恵比寿へ、そこで鈴木さんと別れ、22時半過世田谷村に戻る。
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五月八日
7時半離床。メモを記す。
気仙沼の臼井賢志さんに連絡し、台湾のChen氏、李祖原他の気仙沼訪問のスケジュール相談。5月25、26日の気仙沼行を決める。真栄寺馬場昭道さんより電話あり、昨日退院したとのこと。先ずは良かった。
昭道さんにはこれから働いてもらわなくてはならない。
- 769 世田谷村日記 ある種族へ
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五月五日
午後西調布私用。その後17時前より開店前の宗柳で「作家論・磯崎新17」を書く。18時半、9枚弱を書き終わる。宗柳にもチラホラ知り合いが生まれてしまい何かとうるさいのである。ちなみに、そば屋宗柳のオヤジは黒川紀章、安藤忠雄共に知っている。まだ確認してはいないが磯崎新も、もしかしたら知っているやの感さえある。ここのオカミは黒川紀章は知っている。若尾文子さんの御亭主として知っている。
長崎屋のオヤジは黒川紀章は知っている。安藤忠雄は知らない。オバンは双方共に知らない。店の常連の大半は黒川紀章は知っている。平均年令70才位の明日をも知れぬ後期高齢社会の人々であるから、仕方無いのだろう。民衆の階層性ではない。これは。
しかし、黒川紀章の知名度は東京都知事選への立候補でもつちかわれたのである。
こんな事をこっそり調べてもわたくしの作家論には結局何の足しにもならなかった。残念だ。
それにしても今日は「作家論・16、17」と2本を書き終える事ができた。
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五月六日
6時前離床。新聞を読む。「作家論・磯崎新16、17」に手を入れる。7時了。少し怪しいところもあるが、これで一度手離れさせる。今、18にかかるか、かかるまいか思案している。
9時半、「作家論・磯崎新18」書き終える。小休。
夕刻、宗柳にて一時を過し、想いを巡らすも、たいした成果は無し。マア、想いを巡らせるたびに得るモノがあったりするのもロクなものではないのは知るのだが、実に生活とはつまらんモノではあるな。良く良く、皆さんこの繰り返しに耐えている。エライと感服する。
しかし、論を書き進めていると、ドローイング、スケッチの類が一向に手がつかず、進まない。これはわたくし個人の才質及びエネルギーの問題だけではないように直観する。人間は何ともシンプルな気持の仕組みを持たされているのだ。
夜半、物凄い輝きを持つ月が南天に浮かぶ。
余りの美しさに再びの天変地異の到来の気配さえ感じてしまう。
- 768 世田谷村日記 ある種族へ
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五月四日
頭の中で「作家論・磯崎新16」のエスキスを重ねるがハッキリした形が中々生まれてこない。もともとわたくしはペンを持って紙に触れぬと考えがまとまらぬ手合いなので、そう心配はしていない。でも7日夕刻に磯崎、鈴木両氏との世間話の会がある。それ迄には是非共「作家論16」は書いて研究室に送付してしまいたい。明朝、16を書き始めようと、何しろ決める。
「作家論・磯崎新」はきっちり20迄書き進めたら一度休止させたい。わたくしの本来の仕事の手が動かぬようになっては命取りだ。作家論を書く事はわたくしにとっては自分を破壊することになりかねぬ事くらいは予想はしていたが、かなりの痛手を負うであろう事は、これはもう確実である。
しかし、前へ進む為には必須でもある。
作家論の対象として磯崎新を選択したのは、これは良かった。間違いではなかったの確信は強くなった。R・B・フラーや重源では自分は安全圏に身を置いたままであったろうから、書いても余技になったのが関の山であったろう。他の雑木には関心がない。
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五月五日
良く晴れた朝である。メモを記し、9時前「作家論・磯崎新16」書き始める。
11時とり敢えず、6枚書く。少し我ながら急ぎ過ぎているので休んだ方が良いだろう。鈴木博之ブレイクによってわたくしまで論進行のペースが乱されている。でも、まあ仕方ない。
好きで乗りかかった船であるから、渡り切るまでは漕ぎ切りたい。それでなければ途中で沈没するしか無い。
12時過、私用で外出。春たけなわなのかな今日の天気は。
- 767 世田谷村日記 ある種族へ
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五月三日
休日モードの一日であったが研究室は動いていて、午後のひとときを佐藤くんと雑談する。彼は今でも存続しているらしい飛騨高山・数河峠の高山建築学校に何かしら意見があるようだ。珍しい人間である。
亡き校主倉田康男が残し、今は御遺族の所有になる数河の民家、土地に何かの可能性を視ているらしい。わたくしも何かと縁が無いわけではない。しばし待って、俺もチョッと考えてみると別れた。
色々と無い知恵を絞ってはみたが、どれもこれもあんまり得策ではない。
パッと燈りが指し込む如きのアイデアがすぐに生まれるわけもなくゴロゴロしながら考え続けた。
頭が疲れると人並みに旅に出て、温泉にでもつかりたい、なんて甘い夢を抱く。あきれる位の俗人振りである。でもこんな風は誰にでもある事だろう。
そんな時にフッと本棚の一冊に眼がゆく。嵐山光三郎『温泉旅行記』に手がゆく。勿論、一度読んだからこそ本棚に在るのだが、自分でも何故捨てないのかが良く解らぬ一冊である。
中学、高校、そして大学生の頃膨大に読んだ駄本の類は今手許には一冊も無い。何処に消えたのかもわからない。
本というのは行方不明になるモノなのだ。
嵐山光三郎さんとは面識も何も無い。一度、高平哲郎さんの何かですれちがったくらいのものだ。それも昔である。
嵐山光三郎に関心をもったわけでもないから、この本は「温泉旅行記」というタイトルで気まぐれに入手したモノであろう。
高山建築学校の事を考えていたら、夜中の新穂高温泉を思い出し、小野二郎、生松敬三、木田元諸先生との思い出が巡ったりした。
オッとイケない、木田元先生はまだ生きている。
露天の大風呂にひたりながら詠んだ小野二郎の、駄句「若あゆの 腹かと見れば 我足か」を思い出したりした。
嵐山光三郎も駄句を連発して、『温泉旅行記』に残している。
そう言えば木田元先生、故生松敬三の高山建築学校最上、作造原校舎での紙筒を丸めたマイクでの沢田研二振りは良かった。
何故、あの両哲学者はあんなに唄を好んだのであろうか。そしてそれを人前で披露したがったのか。小野二郎の狂騒振りは、そして極度に裏腹なシャイ振りは何であったのか?
¥ 嵐山光三郎の『温泉旅行記』にはそれを解く何かがあるのか?それは無い。嵐山光三郎は元編集者から独立して作家になった。昔は状況劇場の唐十郎のサンドバッグになっていたと聞く。文豪への憧憬、隠す事のない文豪好み、すなわち作家としてはそれを捨てている、それでも良さがある。
古くは若山牧水、檀一雄等の放浪生活への憧れが強い。
『温泉旅行記』のあとがきを読めば、とんでもない、やむにやまれぬ放浪ヘキが知れる。椎名誠と知り合いらしい。さもありなん。
大衆に顔を向けた、あるいは面を洗面器にどっぷりつけた作家である。自身もまさに大衆である。それを売り物にしている。
明らかにこの人は選良では無い。読者層もそうだろう。
それでも再読したら途中でほうり投げる事が出来なかった。妙な味があるのだ。
この味はフォークナーの準周縁(柄谷行人)から生まれるものではない。紀行文中、中上健次まで登場し枯木灘親方と呼ばれている。
中上健次も柄谷行人と附合ってカラオケをやっている時と、編集者としての嵐山光三郎と酒場で暴れて人をなぐっている時と二つの顔を持っていたのかも知れない。あるいは作家らしきは誰でも「ジキル博士とハイド氏」であり、いつでもダース・ヴェイダーになり得るモノであろう。
と、何を考えても行先は作家論・磯崎新へと道が向いてしまうのであった。
佐藤くんが高山建築学校の何がしかを継承したいという、無謀な意志の中心が奈辺にあるのか知らぬ。でもそれだったら、まだ鈴木博之さんにも難波和彦さんにも何の相談もしていないけれど、Xゼミナールを軸にして、それを発展させる方が理に適っているように思う。
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五月四日
雨は上って、薄い陽光が指している。7時半離床。メモを記す。
実ワ、5月7日の夕刻に磯崎新、鈴木博之両氏と会食の予定がある。某雑誌の巨匠を訪ねるインタビューを鈴木さんが行い、その後にわたくしも参加して世間話しでもしようかとなった。磯崎さんも体調が復活との事である。
- 766 世田谷村日記 ある種族へ
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五月二日
昨日5月1日は午後小用で外出したがさしたる事も無し。今日も同様である。明日も同様であろう。かくなる日は日記も休みたいけれど、習慣で何となく後ろめたく、それで少しばかり書いている。芳賀牧師よりお手紙をいただき、余計な事かもしれぬが日本仏教協会からもすでに原発推進には賛成ではない旨の声明が出されていて、東京新聞にも報道されているとの知らせであった。
しかる故に、私の先月末の日記に書いた事にはどうやら誤りがあった。全国の僧侶の皆さん、読んでくれている方もあろうが、ここにおわびする。
夜遅く、2000年のライオネル・ワトソンの『ダークネーチャー』を横になって読んでいたら、鈴木博之さんと話したくなり、丁度電話がかかって来た。藤森照信の茶室学の話しになった。やっぱり一晩で読んでしまったそうだ。わたくしのこの本の印象は大山崎の待庵が、近くの阿弥陀堂のひさしの下の差し掛けであった、松浦武四郎の差し掛けに似ていたの指摘が中心だと言うに尽きる。
がしかし鈴木博之さんは、それ以上にこの本の全体構成を問題にしているのが興味深かった。Xゼミナールの磯崎新を巡るやり取りに引きつけ、武田、藤井、堀口の茶室への関心の系統に、磯崎、そして藤森自身を置こうとしており、それはしかしやはり知的選良の世界でしか無いと言う。建築家の眼と思考の側からの考えでしかなく、それ以上のものではないとの指摘である。
鈴木さんは今、庭師小川治平衛の仕事のまとめに入っているようで、小川が作家、ランドスケープデザイナーとしてではなく、その外の庭師、植木職として、しかも大きな仕事に取り組んできたのに焦点の一つを当てているのは良く知っていた。
つまり、茶室に於いても建築家の手になる作品としての茶室の外により広い世界があると考えているのである。彼はより広く伝統について言わんとしているのだろうか。電力事業の祖、耳翁・松永安左エ門の茶室などがそれである。
それを聞いて、お茶をたしなむ人々、なかんずくお茶の先生方の家々には茶席らしきがしつらえてあり、わたくしの亡くなった母なども茶道具は持っていたから、さぞかし金があったら茶席くらいは欲しかったのだろうし、恐らく構想くらいは持っていたやもしれない。
世の中にはそういう無数の茶席があり、それは大事な問題を示してきた、と迄考えたのであった。
藤森照信の依って立つ処も今や微妙なものになった。野蛮ギャルドを自称し、その大衆性が彼のアイデンティティーでもあろうが、建築家、デザイナーをマジマジと外から客観視する鈴木博之の眼からすれば、やはり日本的知的選良の世界での様々な意匠という事になるのだろうか。どうやら作家論・磯崎新の次はこの問題を避けて通るわけにはいかなそうである。
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五月三日
大雨である。7時半離床メモを記す。世田谷村近くに良く出掛ける、ソバ屋とラーメン屋がある。宗柳と長崎屋である。先日来、Xゼミナールの鈴木ブレイクより頭の中によどんでいる知的選良と大衆、あるいは作家の依って立つ基盤について、ツラツラ考えるにこれらの良く行く店も又、その問題から決して自由ではない。
又、鈴木さんの隠れ酒場・池袋の魔窟もその問題から決して自由ではあり得ない。
四月十四日の世田谷村日記に一部を記したが、池袋の魔窟Barは柄谷の言で言えば準周縁のスノビズム的場所である。鈴木博之自身は歴然たる選良であり、知的指導者の一人である。でも彼はだからと言って自分のいる場所を森ビル上階の高級レストランやイタ飯屋には求めない。一度京都の百万遍にある高級ではないが洒落た料亭風和食屋に案内したら「俺はこういう店は嫌いだ」と言いやがった。わたくしとしては大枚をはたいたのにである。
でXゼミナールの定宿ではないたまり場は新大久保ガード近くの近江屋になった。そして池袋の魔窟Barにもなった。
これ等の場所は東京に於ける辺境ではないが、準辺境である。フォークナーのアメリカ中西部とは異なるが資本主義が完徹した都市文化の中では、場所としてまさに準辺境である。
鈴木博之には東京の地霊等の労作があるが、近江屋にも魔窟Barにも地霊の影は薄いが、東京の中心には無い影だまりの如くがある。
選良中の選良たる鈴木博之はその好みの表出として、それ等を選んでいる。何故か?いきなり言うが、それは建築史家としての自矜からであろう。歴史学は諸学の王である。しかしながら鈴木博之の学のスタンドポイント、あるいは同時に批評の立脚点は常に中心を迂回するという不可思議さを持ってきた。
装飾、和風、場所、地霊等の彼の一連の主張は常に今の辺境、又は準辺境のスタンドポイントを意識的にとっていた。
東大建築学科のはじまりでもあったジョサイヤ・コンドルの大英帝国の諸々の学習を介して鈴木は日本の近代そして近代建築について様々に考えを巡らせたのであろう。
それ故の自身のスタンドポイントの歴然たる中心性と、自身の思考の枠のズレが発生しているのである。
そのズレは日本近代のヨーロッパ文明・文化への赤裸々な接木の歴史が生み出したものなのである。
鈴木博之のXゼミナールでの磯崎新批評はそのような地点から生み出されていると考えたい。
- 開放系技術論 7
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技術論6で示したわたくしのドローイング(スケッチ)は熊谷市の代島さんの家づくりの予定地に初めてうかがった際のものである。都市、あるいはその郊外の典型的な大量消費型生活の容器である商品性の内に抜き差しならぬ位に呑み込まれてしまっている場所(敷地)では無かったのが、とても大きな救いであった。
大雑把過ぎる土地見学での結論を言ってしまえば、わたくしは消費型の個人住宅を設計する意欲はもうすでにない。とやかくの理屈は述べぬが、それを設計する意味を全く見出す事が出来ぬ。それを為す事が多くの人々の生の意味と結び付いていると言う実感が全く持てぬのだ。
わたしの住宅である「世田谷村」の、ほとんど唯一の現代的意味合いは、これが私有住宅からの脱却の方法らしきを得ようとして構想された事に尽きるだろう。紆余曲折なアレコレの思考を経て今はそう考えるにいたった。本能的に私住宅を世田谷村と呼ぼうとした、その命名には唯一の意味らしきがあった。
この意味とは、わたくしにとっての創作の意味であり、同時に当然ながらその意味ができるだけの社会性を帯びて欲しいと言う事でもある。
熊谷の代島さん代々の家(代島家の意味である)の土地と屋敷林と長屋門を持つ母屋そして広々とした畑を見学して、ここならば「世田谷村」の次に行けるやも知れぬと直観したのである。わたくしの住宅設計のあるいは小建築の遍歴は世田谷村に於いて自閉した、と考えていた。自閉とは随分へりくだった言葉だが、えばって言えば自己完結である。アニミズム紀行7で書いた如くに治部坂のキャビンの設計に始まり、幻庵、開拓者の家を経て、世田谷村に至り、もうこの先は自己模倣しかあるまい、それなら、わたくしのする事では無いと腹をくくっていたのだ。
代島さんの御両親も含めた一家の印象はおいおい述べる事にして先ずはその土地のたたずまいである。この土地には先ず大きな神話学的スケールの風景があった。遠くに二荒山、赤城山、榛名山の雪をかぶった山容が眺められた。(日本という命名以前の裸形の土地神話)古代では二荒山と赤城山は犬猿の仲で争いが絶えなかったと言う。他にもここから眺められる山々の神話は実に宝庫と言うべきなのである。この神話的風景を代島さん一家に別の形で、つまり建築的構想を介して供せないかと先ずは考えた。
次に代島家代々の屋敷との関連で、遠い将来、これから設計するモノとの組合わせで、この地域の私的公共施設になり得るスケールがあると直観した。これは代島さんから御夫妻が将来ここに老人介護の機能を作り出せないかの意志があるのを、すでに聞いてもいたからなのだが。
更に、いただいたデッカイごぼうをつらつら眺めるに、ここは荒川の流れが作り出した沖積層でもあり、野菜が良く育ちそうである事。すなわち世田谷村では仲々うまくゆかなかった野菜づくりがここでは充分過ぎる位に可能であるようだ。
研究室では新潟市に協力して「越前浜農業体験ワークショップ」等も開催し、食と農への関心をかろうじて持続してきた。そのかろうじての細々とした持続を小さな形に出来るやも知れぬとも考えたのである。
以上を短く要約すれば、公共財としての私有住宅と言う事になろうか。これを更に要約したのが「開放系技術論6」で示した一葉のスケッチと、その命名となろう。
このスケッチを「ごぼう畑のある家」と、少し洒落て名付けようともしたのだが止めた。代島さん一家とさらに少しの考えの交流を深めてからの方が良いと判断した。
今は最年少の娘さんからの最初のスケッチと便りを心待ちにしているのである。この娘さんに関して、わたくしは勝手にアルプスの少女ハイジを連想してしまったので記しておく。娘さんも御両親もイヤがるかも知れぬが仕方ないのである。
スペインのグラナダのしかもバスの中のTVで、わたくしは初めて日本のアニメ映画「アルプスの少女ハイジ」に出会った。恥ずかしながら、アルハンブラ宮殿よりも余程感動してしまった。その時丁度、ハイジが初めて屋根裏部屋からカシの樹だったかの大木に出会うシーンであった。バスの乗客のアンダルシアの連中も、勿論ガキも皆固唾を飲んでハイジを見守っていた。運転手迄どうやら見入っていた。良く事故に遭わなかったものだ。それは忘れられない記憶である。赤城山や二荒山が視えたからなのだろうか、代島さんの娘さんばっかりの家族や奥様の印象もあったんだろう、土間もいいけど、屋根裏部屋の窓から山を見せてあげたいなと考えてしまった。
2012年3月30日 石山修武
※ 1 伝承では、巨人ダイダラボッチが土盛りして作った山とされる。土を掘った跡は榛名湖となった。榛名山が榛名富士と呼ばれるのは、このとき富士山、浅間山とともに作られたためである。ダイダラボッチが土盛りしている途中で夜が明けてしまい、土を盛るのを止めてしまったため榛名山は富士山より低くなった。柳田国男はこのようなダイダラボッチ伝承を全国から集め『ダイダラ坊の足跡』を著した。国土形成神話が村びとに親しまれる構造には民俗学の学問たる由縁が顕著に表れている。ダイダラボッチはそのアイコンであった。
※ 2 男体山と赤城山の神々はそれぞれ大蛇と大ムカデとなって争い、男体山が勝ったとされる。戦場ヶ原の地名はこのことに由来する。負けた赤城山は老神温泉で傷を癒して男体山に反抗した。老神とは負けた赤城山の神であり、男体山は隣接する女峰山と対で名付けられた。地名をたどると、地形、方位に表現される地勢のインフラストラクチャーが連続していくことがわかる。男体山には二荒山神社が、赤城山には赤城神社があるのもそのためである。
※ 3 原作はスイスの作家ヨハンナ・シュプリ(1827-1901)によって1880年に書かれた児童文学。シュプリはゲーテの著作『ヴィルへイム・マイスターの修行時代』と『ヴィルへイム・マイスターの遍歴時代』に影響を受けており、原本タイトルもこれを模倣している(『ハイジの修行時代と遍歴時代』)。これをアニメ化して「アルプスの少女ハイジ」とした。ハイジは少女の容姿でありながら、その表情には母性があり、黒い目の奥には父性を同居させたアイコンとして描かれた。アルプスの山々はそのようなハイジの総合を描写した。一方で、キリスト教の視角から山への回帰を願うハイジの志向はアニメでは排除されている。
※ 4 ハイジの「アルムの山小屋」の屋根裏部屋には干し草がたくさん積まれ、丸窓が開けられている。ハイジは干し草のベッドで眠るが、雪が降ると丸窓から雪が入ってきてしまう。屋根裏の丸窓はハイジに結晶化されたキリスト教史観から来る純粋性(善ではない)と、学習というややもすれば社会的背徳を孕む概念との微妙な接続点であったとも言える。
- 開放系技術論 6
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「代島さん一家の土間とその囲い」(※1)
より詳細については、すぐに開放系技術論7で述べます。
代島さんへ
代島さんにお見せする前に、そして代島さんの娘さんからの最初のお手紙を公表する前に、このようなドローイングをお見せすることにしました。
その理由は、代島さんとの個別な関係から生まれる価値には、同時により多くの方々への価値があると考えるからです。
※ 1 このドローイングに表現されている柵状のモノはアイヌ民族はチャシと呼んだようである。
「フュステル・ド・クーランジュの『古代都市』に、竃のすわる土地は神の土地で、その周囲には垣根をめぐらされなくてはならず、“家族に所有権を保証するものは家の神”だ、とあります。もちろん当時のギリシアには、カソリシズムなどはないわけですから、ギリシア人の感覚は今のお話しのバスクに近くてもおかしくはないですね。」
網野善彦、姫田忠義対談より。網野善彦の発言。
代島さんが土間が欲しいと直観し、それに反応してわたくしが土地見学に際して描いた最初のスケッチの囲い=柵はこんな古層まで時空を超えて地下水脈を通じているものであるやも知れない。
3月30日 石山修武
- 開放系技術論 5
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先日銀座TSビルでの坂田明のライブでの事。杉並の渡辺さん一家がいらして下さった。坂田明もたしか埼玉県の一軒家にメダカやミジンコと一緒に住んでいる。ライブは東日本大震災の被災地気仙沼復興支援のためのものだった。渡辺さんの杉並の住宅(※1)はわたくしの研究室で設計した。2011年3月11日以前、すなわち大震災、津波、原発事故以前の開放系技術型の住宅である。
渡辺さん一家の子供たちもライブには来てくれた。皆大学生になっていた。この子達は実ワ、渡辺邸建設にあたってはまだ実に幼少ではあったけれど、自分の家の建設に少し参加してもらった(※2)。
それはとも角、その子供達がどうやら皆、建築の径に歩み始めているらしい。お母さんが、それがとても嬉しいと言って下さった。小さい時に自分の家づくりに少しは力になったのが恐らく影響しているらしい。ほんの少しだけれど、自分のやってきた事を悪くは無かったのかと考えた事ではあった。
渡辺一家の家作りではわたくしは子供達に自分の居たい場所は出来るだけ自分で考えてごらんと言った。でもこれは仲々に難しくて上手くはいかなかった。デザインってのはそれ程わたくしが考えていた程には容易なモノでは無いのを知った。子供に仲々出来ぬのを万人に向けて開放するのは空理空論だと知ったのである。
渡辺一家には大工職の経験を持つ御祖父さんがいらした。とてもおだやかな方であった。御祖父さんは床貼り他の施工に参加して下さり、そのオジイちゃんの下で子供達もいささかの活躍をしてくれたのだった。工事現場は子供達にとっては危険の宝島でもある。指を切ったり、足を針で踏み抜いたりの危険は多い。
それを知りながらお母さんは敢えて、子供達を住宅工事の現場に野放しにした。英断であった。
作家の森まゆみさん(※3)に『現代の職人』でのインタビューでお目にかかった時、森さんは「町に子供を野放しにして、町で子供を教育するのが理想だろう」と言っていたのを記憶しているが、町と住宅建設現場は同じなのだ。共に子供らしい好奇心の宝島である。そして共に危うさにも満ちている。渡辺夫人はそれを知りつつ子供達を住宅作りの現場に放り出した。その英断の礎には勿論この大工職であった御祖父さんの存在があったのだ。
わたくしが子供達に自分の居る場所は自分で考えよと言ったのは歴然と空論であった。子供達はスケッチらしきを試みようとしたけれど、それは上手くいかなかった。なぜなら一切のトレーニング(※4)を受けていなかったからだ。何をどのように考えたら良いかの方法を知らなかった。わたくしはその状態を充分に感知していなかった。
一方、御祖父さんは立派な大工道具一式を現場に持ち込んだが、子供達に一切の空理を述べたりはしなかった。カナヅチはこう持って、こう振る。ノコギリの持ち方はこうだ、こうやって切る。の道具とモノに即しての、まさに即物主義であった。
御祖父さんの勝ち。
すぐに子供達は御祖父さんの輩下となり、わたくしの観念的な教室には戻ってこなかった。
子供達にはモノを作るためのスケッチなぞ考えるよりも、そこいらに転がっている木片を切ったり、たたいたりする方がズーッと面白かったのである。
モノを考える、つまりその作りたい姿をスケッチするよりも直接にカナヅチやノコギリに触れてそれを使いこなす方に好奇心が集中するのであった。現場には近くの子供達も集まってきていたが誰もがそうであった。わたくしの教師としての才が欠けていたばかりでは無い。つまり、直接に素材(木片など)に触れる、それを加工する道具に触れる事が好奇心としては一番で、それをどう形作るか、つまりデザインするかは子供達にとっては二の次、三の次であった。それを今更ながら思い起こしている。
大学生になった彼等は皆建築学科で建築を勉強しているようだ(※5)。でも、小さな頃に御祖父さんの下で木片に触れたり、道具に触れたりの、それこそ最初の感動らしきはどうなっているのだろうか?いささか心配になる。
代島さん一家の子供達は皆女の子である。渡辺さん一家の子供達が皆、男の子であったのとは歴然として異なる。
最初に出来るであろう家に住み込むだろう、来年熊谷の高校に入学する女の子に早く会ってみたいものだ。女の子だから、カナヅチ振り廻したり、ノコギリやナイフを使ったりよりは落書きや、塗り絵みたいなのが好きなのかも知れない。そうであれば、最初に会った時が大事だから、早速女の子に与えたい宿題を考えてみたい。あるいは、今は女の子の方が男の子よりも余程元気でエネルギーに溢れているようだから、スコップやハンマーを渡した方が、やっぱり良いのだろうか。
※ 1 オープンテック・ハウス#2、2002年竣工。#1は世田谷村。世田谷村みたいな家が欲しいと言ってくださった渡辺さん一家を中心に研究室のスタッフ、大学院生も含めた建設チームによって、分割分離発注方式で自力建設された。その一部には世田谷村の部品と同じ工業製品が用いられており、鉄骨の構造体も同様に造船技術を転用して製作された。
※2 渡辺さんには3人の息子さんがいて、一番下は当時小学校低学年であった。彼らはシナベニヤやフレキシブルボードを加工して学習机やベットなど、自分たちのコーナー(部屋ではない)を製作しようと試みた。大人に手伝ってもらいはしたが、きちんと実物が完成し実際に自分たちで使用した。
※3 森まゆみ(1954-)は作家、編集者。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊し、地域雑誌ながら一世を風靡する。今では一般化した「谷根千」というフレーズは編集組織の「谷根千工房」に由来する。また上野奏楽堂や旧岩崎邸などの保存を目指し、市民運動の立場からこれを実現した。森の社会に対する一貫した姿勢は、女性特有のリアリズムに根ざしながら、夢想を超える理想像を生活や地域の中に求め実践するところにあると言える。
※4 大学における近代建築教育は大学間の微細な差はありつつも、その大方はバウハウス以来のシステムに拠っている。これは教えやすく、評価基準が明確になるように開発された。そのために近代が100年の歴史を持とうとしている昨今では、画一的、均質と揶揄されがちである。しかしその一方で確かに不特定多数に必要十分なクオリティを浸透させてきたこともまた歴史的事実である。開放系技術は素人でも扱い可能な技術で、誰もが表現することを理想とするが、それもまた近代から生まれた側面を抱えていることから逃れ得るものではない。工業製品の組み合わせに代表される住宅価格への試行は、その前提に立った現代的実践の一形式であり、製図のトレーニングもまたそのような形式を発見できればこの矛盾は解決されるはずである。自力建設の場に従来の設計専門家が関わる意味はそこのところにある。
※5 注4で述べた大学における近代建築教育のもう一つの側面である。教育が技術と思想のどちらを教えるべきであるのか、日本の建築アカデミーは長年二分されてきた。関東大震災直後に佐野利器の「デザインは婦女子のすること」発言に代表される実務主義を否定することは困難である。東日本大震災から1年を経た現在の状況はこれに酷似している。しかしながら、開放系技術は人間の生命を守るという建築本来の使命を求めるからこそ、守る対象である人間一人ひとりの個別性に特化するのであり、表現行為を行わない人間は存在しないからこそ、まだ教育を受けていない人種である「こども」に多能工の始源像を求めるのである。
注釈:渡邊大志
- 開放系技術論 4
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1.決して遠くはない未来へ向けて、新しく作る住宅と古い今御両親が住んでいる農家(※1)を合わせての地域の高齢者ケア私設センターになり得る住宅としての設計
2.代島さんのイトコさんに焦点を求めながら地域サービス業としての住宅の作り手=旧来の大工職人、工務店らしきのモデル化を試みる
以上2点を代島さんの住宅を設計する上での出発点としたい。しかしながらこれ迄の経験では設計者がクリアーに立てようとする仮説はあくまでの仮説に終始しかねない。立ち向かう現実はクリアーな仮説をみじめなモノに見せるのが常である。かくなるクリアーさは最初から少し薄汚れた形式にしておいた方が良ろしいのである。つまり、わたくしはこれ迄必要以上に小建築=住宅設計に方法的継続をもって取り組んではきたが、どうやらそれは現実にはあんまり受け入れられはしなかった。その現実を一方的に間違っていると居直るのはこれもクリアーだがひ弱過ぎる。それ故に少し計り設計方法のモデル自体を意図的に非クリアー、非明快なものに準備しておきたい。実に守旧的な平面計画、小建築の形姿に関するスタディの準備もしておきたい。その準備の核は土間である。代島さん夫妻は土間がどうやら欲しいらしい(※2)。この土間像は代島さんの実家の農家の土間が原点にあるようだ。
2013年の春、つまり娘さんが熊谷の高校へ入学出来るように住宅建設のスケジュールは決められている。つまり竣工迄1年しかない。学生時代、住居論(※3)を著した吉坂隆正先生(※4)から住宅設計をするにはその土地の春夏秋冬を体験しなければならぬと教えられた。先生の仕事場は有名であった自邸(※5)の庭にあった。プレファブの現場小屋みたいなモノであった。沢山の人間が入り込んでまさに飯場小屋の趣があった。夏暑く冬は寒いのであった。先生の御宅も断熱材などは無く裸の重量ブロックだけが外と内を境界づけるだけであった。四季の移り変わりはそれこそ身にしみたであろう。それで住宅設計に際しては春夏秋冬の土地の様子を体験せよと教えたのであろう。
今、流行の消費型住宅は高断熱、高気密で室内気候は四季折々とは無関係とは言わぬがそれとの断絶を一義としているのは間違いない。
わたくしの室内気候に対する考えの第一は、梅雨というシーズンの無い北海道は明らかに別として、日本列島の大方はアジアモンスーンの類型に属しているという事だ。恐らく地球上でも稀な穏やかな気候帯に属する。
別の言い方、考え方をすれば大方の住宅を作りやすい土地は建物を建てる前に、すでにアジアモンスーンの大自然のシェルターがかかっていると考えても良かろう(※6)。このシェルターの恵み、つまりは自然そのものを屋根として最大限に意識したい。
屋根、庇はだからシェルターというよりも二次的なフィルターの如くに、観念としては意識したい。デザインは第一に意識である。少しどころか大いに性急ではあるが、時間はあと1年しかない。急がねばならない。娘さんの高校入学の方が、シェルターかフィルターかの考案よりは大事である。
そう言えば、代島さんの娘さんに関してだがどうやら彼女は新しい家の住人の最初の一人になるような話しもあった。おじいちゃん、おばあちゃんの実家を仮住まいして、そこから高校に通学するのも考えられるが、しのびない。やはり両親がついていてあげたいという訳だ。おじいちゃん、おばあちゃんの家には大きな長屋門(※7)があるようだ。代島さんは高校生の頃は長屋門のひと部屋で過ごした体験がある。その自室の階上にはごっつい小屋梁が丸見えの屋根裏空間があり、その隠れ場所のような感じがとても好きだったと言っていた。そう言えば彼はカンボジアの「ひろしまハウス」を撮影した時には床に寝ころんではるか上空の屋根裏を熱心に撮り続けていた(※8)。
屋根裏の小屋組に強いノスタルジーがあるのやもしれぬ。
アジアモンスーンのシェルターを意識する、つまり天然の屋根を意識するって事だが、そうすると、当然、大地の問題になる。つまり土間である。
伊豆の江川家の土間、そしてその上空にかけられた大架橋は良く知られている(※9)。あそこの土間に豪然と立ち上がっていた大黒柱と、土間のカマド、そして諸々の土間に関連する神棚の記憶が鮮明によみがえってくる。
※ 1 代々熊谷に続いてきた代島家には、かつて養蚕をやっていた古い母屋が残っている。代島さんは桑の木に囲まれている風景が記憶にあるそうで、この母屋や周囲の果樹園などとの組み合わせも計画に含まれている。
※2 代島さんの奥さんは生活とかかわる文をテーマにした随筆家である。代島さんが奥さんの希望として最初に述べられたものは、1階に土間、2階はバラックのようになっていて色んな人が泊まれる、ことであった。
※3 『建築学体系』第一巻 彰国社、1970年 は吉阪隆正による住居論から始まる。今和次郎の「日本の民家」に流れを組む「ヒューマニズムの建築」という早稲田の本流の視点から、都市の住居論の端緒に家政学を置いた。その上で、自身のル・コルビュジェの下で学んだ体験から生活と住居の関係を「24時間の周期の中で分業される3つの行為」と「各生活行為の行われる3つの場」によるマトリックスを用いた類型学によって従来の生活学に変わる学問を目指した。
※4 吉阪隆正(1917-1980)は建築家、早稲田大学教授。スイス大使を務めた父親の家に生まれる。1950年第1回フランス政府給付留学生として渡仏し、1952年までル・コルビュジェのアトリエに勤めユニテ・ダビタシオンの現場などに携わった。アトリエには当時クセナキスや前川國男、坂倉準三らがいた。登山家でもあり、その後早稲田で教授として教鞭を執るが登山のためにあまり授業には出て来なかったとも石山は反芻している。代表作に八王子セミナーハウス、ヴェネツィア・ヴィエンナーレ日本館など。
※5 ル・コルビュジェのドミノ理論を踏襲した鉄筋コンクリートによるラーメン構造を骨格とし、柱梁間は重量ブロックを積層して塞いだ建物。周囲には池のある庭があり、池に面した開口部のみに有機的な形態を用いた。
※6 アジアモーンスーン気候のシェルターの考えは、川合健二から引き継いだ住宅用エンジンのアイディアなどにも見ることができる。3.11.を経験した現在、その考えはクリーンエネルギーを用いたエネルギー供給システムなどと結びついて、建築と都市を横断する視点がより鮮明になった。
※7 この長屋門は行田の忍城の裏門であるとの説もあるらしく、近くの小学校に通うこどもたちが毎日その前を通って行く。
※8 ひろしまハウスは2006年に竣工式を迎えたが、その後ウナロム寺院の要望によりカンボジア式の屋根が架けられた。三段式の屋根が仏足のさや堂として屋上に増築された。2階の吹き抜けからは今は仏足の裏越しに細い無数の柱が天空へ伸びて屋根を支えているのが見える。
※9 伊豆の江川家は韮山に代々続いてきた名家で、江戸時代は代官を務めていた。木造民家や蔵を含めてた建物群が当時のまま保存されている。中心の母屋には1261年に日蓮聖人が書いたとされる棟札箱が残されており、築700年以上とされる。そこには50坪を超す大土間があり、その地面は赤土、砂、石灰に苦汁を加えて練りたたき固めたものである。木造の大架構が大かまどを含めた土間全体を覆う無柱空間は民俗学の分厚さを空間で体現しているかのようである。
注釈:渡邊大志
- 開放系技術論 3
-
我々が名作と知る住宅、つまりそう教育されてきた、そして教育してきた諸々。例えばル・コルビュジェのサヴォア邸、ミース・ファン・デル・ローエのファンズワース邸、等は設計者はその土地を見て設計を開始したとはとても考えられない。土地の前にある種のイデーらしき(※1)が建築家の側に確実に存在していた。一方、フランク・ロイド・ライトの落水荘、アルヴァ・アールトの夏の家、等は土地が先ずあって、それに触発されて、土地との関係作りを前提として住宅建築が発想されている。
両者は全く別の種族に属する。更にわたくしはそれとは別の種族に属そうとしている。
代島さんの住宅を設計するに当り、3月中旬には土地を学びに埼玉県熊谷に出掛けようの予定にした。わたくしとしてはその土地を見学する前に何等かの準備はしたいと考えている。でもそれは平面図のイメージであるとか、小建築の姿形だとかを用意して行こうと考えているのではない。今度はそれを意図的にやらない。でも平面図のアイデアや小建築の姿形とは別の何ものかを用意して出掛けようとは考えている。それが何であるかが、かく言う「開放系技術論」の重要なポイントなのである。
先日お目にかかった代島さんはこんな事をおっしゃった。
「実家のある地域にはイトコがいて、ソーラーパネルの取り付けやら、色々な雑工事やらを地域サービスの形でやってるんです」
この方には是非ともお目にかかる必要があろう。住宅=小建築の建設に最重要なのは設計と同様に、あるいはそれ以上に建設会社、工務店、大工職人さん達の建築生産組織(※2)らしきである。いくら良かろうモノをデザインしても、実際にそれを作ってくれる人々、組織がキチンとしていなければ良いモノが出来るわけも無い。そして現代ではそれを見つけ出すのが途方も無く困難である。先ず理想的な職人さんに出会う確立はゼロに等しい。理想的な職人とは、かつてわたくしが『現代の職人』(※3)で書き続けた如くの像である。しかしながら振り返って考えてみてもアレで取り上げた現代の職人中に大工、棟梁らしきはすでに皆無であった現実が在る。現実は直視しなくてはならぬ。あの本ではほぼ10年をかけて職人らしきを訪ねたが、家を作る伝統的な意味合いを持つ職人らしきには遂に出会えなかった。つまり、わたくしが理想としたい職人さんは家つくりの大工達には居ないと覚悟しなければならない。
代島さんがイトコさんの話しをなさったのはできれば協力させたいの意があるのだろう。大工職人というよりも地域サービス職のイメージが強い方であるらしいのは良い。
現代に於いて、最も理想形に近いプロフェッショナルはいきなり言うが老人介護のデイケア等に従事している人間達ではないか。かつて、わたくしは多能工の如きモノ作り人間像を思い描いた事がある(※4)が、あれは見果てぬ夢幻であった。
代島さん夫妻もそれ程遠くない未来、隣りに在るご両親の大きな旧農家を使用して老人介護センターの如き場所にしてゆきたいの希望もあるようだから、その夢に対して、今から少しづつ人脈、地脈作りをするのもプランとしては良いのではなかろうか。
だから、今度の久し振りの住宅設計のプラン(平面図)はすぐには用意しないけれど、3月中旬までにはもう少し広々とした、そんな計画に向けたマスタープランの如くは用意したい。
1.地域老人介護センターに向けての前進基地の人脈、地脈作りのマスタープラン
2.地域サービス業としての家作りプロフェッショナル(イトコさんを中心とする)イメージプラン
の二つの大方を用意したい。
以上の目的の為にインターネットを上手に使った情報集めをする(※5)。熊谷市を中心とした埼玉県域に情報収集のいくつかの拠点を得なくてはならぬので早速それに向けて動けるようにしたい。
3月2日 石山修武
※ 1 一般にはル・コルビュジェは近代建築の5原則やドミノ理論が前提にあったとされ、ミースは俗にユニヴァーサル・スペースを前提に説明される。しかしながら、コルビュジェのそれはサヴォワ邸との前後関係に疑念の余地もあり、また、ミースの建築は神社にも近いとも言われ、ユニヴァーサル・スペースなどという単純な理屈だけで説明がつくものでは到底ない。
※2 歴史家の渡辺保忠は『日本建築生産組織に関する研究』(1959)において、日本の建築史を建築生産史の観点から描き直そうとした。開放系技術もこの点を引き継いでもおり、日本の建築生産史へのまなざしは具体的には現場の職人さんの組織化という実践に結実する。
※3 石山修武『現代の職人』晶文社、1991年。
※4 石山修武『秋葉原感覚で住宅を考える』36頁「素人でも家は建てられる」晶文社、1984年を参照。近年では『住宅建築』2002年10月号「石山修武とオープン・テクノロジー」建築資料研究社、などを参照。
※5 石山修武「開放系技術論2」注6を参照。
注釈:渡邊大志
- 開放系技術論 2
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住宅設計の依頼に来室された代島さんと、設計他を引受ける前段階の大枠、あるいは基盤(※1)について話し合う。
代島さんからは建設予定地、大方の予算。そして、こんな風な事考えて欲しいという概要。そして実家である熊谷市での代島家(※2)の歴史、将来住宅が建てられて後の地域に働きかけ果していきたい高齢者のケアーハウスとしての遠い将来、実家の再生案も含めた新住宅とのコンビネーション、イメージ等をうかがった。新鮮な事が少なくなかった。ご両親が保有するいささかの広さを持つ畑での野菜づくり、又、本職でもある映画、映像作りのいわゆる小屋にもなり得たらなあの希望もうかがった。
東京での今の暮しを一度片付けて田舎へ進出するのだとの強い意志がある様だ。奥様の著作二冊と、代島さんの著作一冊もいただく。
大方望んでおられる事は把握できた様に考えたが、まだ生活体験の薄いスタッフにいただいた本を通読するように指示した。
わたくしの方からの設計他を引き受ける条件としては、
一、設計のプロセス、つまり代島さん御夫妻とのやり取り(※3)を、守らねばならぬプライバシーの枠を熟慮した上で社会に公表させていただく事。
二、社会に意味ある作業を第一とする事、つまり建築雑誌等に作品として発表する等の枠の外での仕事(※4)にする。
三、設計料とは異なる方式(※5)での我々の労働への報酬を考えていただく。
の三点をお話しした。三点共にこれ迄のわたくしの経験の外に在る考えなので、実はまだ不明の部分が多いのであるし、代島さんとて充分に理解されたわけでもあるまい。それ故に具体的な作業を進めながら少しずつ明快にしていこうとなった。
四、もう一つ、これはわたくしの青くさい抽象論でもあるが、住まいを作る事はそれぞれの人間の生き方の表現なのであるから、依頼主も設計作業に参加、自己表現すべきである事(※6)も話したが、これはまだ具体性にとぼし過ぎて代島さんはむしろ色々と要求して、それで出てきた答えに住んでみたいとの事であった。依頼主の夢(※7)、あるいは意志を依頼主がどんな形式で表現すれば良いのかの提案をしてみる必要がありそうだ。二〇一三年三月迄に娘さんの学校の件もあり、一部住み込めるスケジュールが条件である。三月中旬に我々より最初の提案をし、同時に敷地見学他を行う事になった。本日は土地写真を沢山いただく。
これで、これまでのお附合いとは別に著作を介しての人物、土地、予算、工期はほぼ把握できた。
代島さん(依頼主)が帰られた後で研究室としての具体的な対応案を先ずどのように考え始めるかを相談する。
一、インターネットに依頼主とのコミュニケーションをどのように表現していくか。
二、どのようにその公表の了解を得るかを具体的に考えようとなる。
一に関しては、現石山研のウェブサイトでの位置のデザイン(※8)。これはすぐに決定した。
二については、公表前にやはり依頼主の了解を、しばらくは実験的に取るべきであろう。お互いの信頼関係がしっかりとしたら、これは少し省略しても良いかも知れない。ともあれ社会性を持たせる事が第一であろう。3月1日 石山修武
昨日の代島さん(依頼主)との話し合いを想い起してみる。話し合いの中から具体的デザインのきっかけを得られるとすればである。こんな言い廻しをせざるを得ぬのは、やはり理論と個別解との関係(※9)がそれこそ十分に理論化されていないからだろう。
開放系技術論の中枢は誰でもデザインは可能(※10)だという事である。そしてデザインの上手下手は、端的に言えば高級低級の階層の外にデザインの意味を発見しようとする事でもある。何故ならデザインの高級低級、上手下手は方人に潜在する表現欲=自由への意志を閉じ込めてしまう方向に軸を持ちやすい。そしてそれはモダニズム=近代デザイン教育=建築デザイン教育によって作り出された基準が基幹になっている(※11)からである。近代デザイン教育、建築設計教育にたずさわる人間達の集団的意志は極めて守旧的=自己保身的である事が多いのである。つまりデザインを評価せねばならぬから、当然ある基準を持たねばならず、その基準自体がそれ程に理論化もされていないままが事実なのだ。
昨日の話し合いで、例えば代島さんからは「土間があって、その廻りに何かが配される感じ」という要求があり、興味深かった。しかしモダニズムの枠の内には土間は無い。今はいい加減な多様化が哯われてもいるが、俗な多様化と、わたくしの言いたい個別化とは全く異なる。
バウハウス(※12)にルーツを持つモダニズムと、日本風モダニズム(※13)には大きなズレがあった。京大(※14)の西山夘三の寝食分離(※15)の理屈、生活改善運動の如きが日本風モダニズムでもあった。そしてそれは同じ京大の建築教育の創始者の一人でもあった藤井厚二の営為(※16)とは全く異なるものであった。東工大の建築教育のバックボーンであった清家清の営為(※17)は西山と藤井の折衷主義とでも言い得ようか。それ等のいずれもがバウハウスのイデオロギー(※18)とは大きな距離があった。そして多くの住宅作品がその大折衷主義、歴史としての意識せざるゴチャ混ぜ主義の如くから生み出され、日本の住宅表現のどうにもならぬ主軸となったのである。
3月2日 石山修武
※ 1 西洋的近代を江戸期の枠組みに接続させた日本の建築・住宅生産システムにおいて、町の工務店からゼネコンと呼ばれる企業形態に至るまでの設計施工方式が現在の大きな基盤となっている。原理的に考えれば、この枠組には設計料という概念は存在し得ない。そのため本来設計事務所というデザインを商品とする職能組織はこの枠組の中で対価を求める名目が立たないはずである。これはデザインが施工技術の中にあった江戸の大工棟梁の職能と性質に拠る。開放系技術もまた住むことの表現(=デザイン)は住まい手(=作り手)にこそなされるべきとして、設計料を否定する。しかしながら、その理論はそれ故に素人でも施工可能なほど容易で安価な技術によって支えられるべきであるという部分に、中間マージンを含む設計施工体系と根本的に異なる原理がある。しかし、その場合の設計主体の労働への対価の新しい意味が創出され、共有されなければならない。
※2 代島さんからは、祖先に代島久兵衛という和算の算術師がおり、久兵衛が作った算学の問題が神社に奉納され文化財となっていることや、行田の忍城の裏門が実家の長屋門となっていると子どもの頃に聞かされたことなどの歴史が話された。
※3 やり取り、つまり交信はアーキグラムによって近代建築史の中で一つの建築の雛形として確立された。開放系技術は、より多くの建築の専門職ではない人たちに容易に、安価に住宅を建設することを可能とさせる技術を配布することにもその実践の一端があり、独立した価値を持つものだと考える。そのために今回、代島さん夫妻と私達の交信もネットを介して読者のみなさんに同時中継している。その対価は0円である。
※4 ここでの「枠」の外とは、開放系技術論1の注1にも記したような建築家の自己擁護的な世界での価値に終始することによる建築的価値への疑念を含む二重の反芻を呈示する。
※5 本稿の注1と併せて、設計料と呼ばない対価の呼称を考案する必要がある。このことは従来の設計業務を基盤とする限り設計家の自己否定になりかねず、開放系技術の実践をオペレーションする立場にもまた確固たる理論が用意されるべきである。この点は次第に明らかにされていくだろう。
※6 そのためには、依頼主(建築の専門技術を必ずしも持たない人間)にも扱うことの出来る技術を提供することへの解決が必須である。これには二つの原理が考えられる。一つは剣持玲の規格構成材理論に代表される、仕組みそのものを変えること。これには工業生産された建築部品を生活者に役立てるためのより直裁な流通形式の考案が含まれる。もう一方は、情報技術に代表される技術の進歩による解決。建築を包囲する技術は、そこに住まう人間に比して加速度的に進化してきた。これについて松村秀一は「技術と人間の間の美しい関係」の必要性を指摘している(『INAX REPORT 188』内「大きな問いを立てる建築家」)。特に、開放系技術の伝達が初期の「D-D通信」からこのウェブサイトへと変化しているように、コンピュータによる情報収集、情報編集能力の飛躍的な向上を開放系技術実践の唯物的「現場」にどう具体的に取り込めるかは目下の課題であろう。
※7 夢について石山は世田谷村日記を介した生活の中で度々言及する。特にJ.L.ボルヘスにあるような構築性と溶融性を融合した媒介(メディア)としてみれば、代島さん(依頼主)の夢は我々の夢でもある。かつて石山が伴野一六邸に見出したように、開放系技術が生産・流通の論理の奥に表現が宿っていることを意識するために敢えて注釈をつける。
※8 2012年3月2日よりトップページの8つのタグの上に開放系技術論のタグがプカプカと浮いている。思考を一軸で表現するのは単純かもしくは過激かのどちらかであり、放射状は中心性が表現され過ぎる。以前石山研のトップページは螺旋状に描かれていたが、今回は浮いている。その意は建築のデザインと同義である。
※9 この関係を理論化するために単純化してしまえば、注6で記した前者は普遍化のための規格化となるだろう。しかし注6の後者におけるコンピュータによる複数の端末の多様性(つまり私たち)を考えれば、普遍化のための個別化の必要はそれほど無理なく理解されるのではないだろうか。
※10 その生産・流通体系との関係は注1で述べた通りである。創作行為との関係は注14に記す。※11 近代デザイン教育のシステムはバウハウスによって確立された。結果的にそれは生産し易く、教え易い形態を採用した。教え易いことは評価がし易いことにつながり、これが容易に機能主義を合理主義と結びつける誤読を招きやすい歴史があった。
※12 モダニズムは具体的にはグロピウスがドイツから大西洋を渡ってハーバードへ移ったことでアメリカ型のグローバリズムと結びつき世界システムとなった。しかしそのモダニズムは初期バウハウスの建築教育運動の一側面しか表現していない。
※13 オリジナルな活動の後にアメリカ文明と結びついたバウハウス発のモダニズムをさらに日本は矮小化せざるを得なかった。これには敗戦国となった日本の戦後と同潤会に代表される住宅不足の早期解決が求められた中で、経験主義的な手つきで理論を触らねばならなかったことの当然の結果でもあった。
※14 武田五一が東大から京都工繊大へ移る形で東京から西へ移り、その後京大建築学科を創設したことに京大の根深い歴史的構造がある。その京大の西山が日本風モダニズムを採用したことは、東大の佐野利器、早稲田の佐藤功一ら各建築学科の創始者(佐野は辰野の弟子)である武田五一の同時代人の性質と相対化して考えると理解しやすい。
※15 食寝分離は生活を学問する姿勢から生まれたものであったが、肝心の生活が民俗学的なそれとは全く異なる戦後庶民の「お茶の間」生活を基盤としたため建築理論の骨格になり得なかった。後に東大の吉武研がこの経験主義的な側面をそぎ落とし、システムに割り切ることで51C型という全く似て非なるものを呈示したことがそれを証明している。
※16 藤井厚二の代表作聴竹居(1928)は京大のもう一つの歴史的側面である。日本の風土を基盤とする美学の上に近代を打ち立てようとした藤井の営為は、藤井を呼んだ武田五一の東大に対する雄健蒼勁ぶりがうかがえる。
※17 清家は自邸「私の家」にコンテナを1つ置いていた。そこにはコンテナの持つモビリティーやグローバルスタンダードとしての単位性などへの関心はなかったように思われる。詳細は石山修武の清家清ノート(『住宅建築』2008年1月号)を参照。
※18 ここでいうバウハウスのイデオロギーとは、グロピウスの亡命によってアメリカ文明と結びついたモダニズムを指すだけではなく、アーツ&クラフツの流れを組むアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデやグロピウスと対立したヨハネス・イッテンなどの初期バウハウスの包括的近代建築教育の発芽を指している。ここでは、これらの優劣よりもむしろ日本の住宅表現の主軸がそのいずれよりも厳密に精査されなかったことが問題であった。
注釈:渡邊大志
- 開放系技術論 1
-
母の家(※1)の建設で予定していた開放系技術論(※2)の実践的展開(※3)が、母の死によって少し遅れた。母の終のすまいの具体としての構築が不要になったからだ。わたくしの理論らしきはそれくらいのモノであったかと忸怩たる気持にも襲われた。まだまだ理論らしきは実人生よりも高次なモノであるの気分が抜け切らぬのだ(※4)。
それはそれとして、本日どうやら知人が訪ねて来る予定になっている(※5)。住宅の設計(※6)の依頼のようだ。
わたくしの自邸である世田谷村の自力建設(※7)以来、住宅設計はしないと決めていた。でも高齢だった母の依頼は断われる筈もなかった(※8)。母がお前の作る家で死にたいと言うのを、断われるわけが無い。実ワ、色々と考えて実行に移そうとする寸前に母の命が尽きた。しかし、アレは死んだ母には申し訳ないのだが実現しない方が良かった。開放系技術論の実行たらんと考えたのだが、自分でも納得できる水準のアイデアではなかったのだ。アイデアの水準くらいは自分で測定できる位にはなっている。あのアイデアは二流のモノであった(※9)。
今日訪ねてくる依頼者らしきは知人である。それ程深い附き合いがあるわけではないが、共にカンボジアの「ひろしまハウス」(※10)に訪ね、彼はTV番組の制作をした(※11)位の仲である。でも「ひろしまハウス」は今のところ開放系技術の実践としては「世田谷村」と並んで双璧なモノであり、彼はそれを体験している。彼もTVカメラを介して何らかの表現だってなした(※12)。だから、わたくしの考えらしきの一端は知る筈だ。
この依頼は引受けるつもりだ。チョッと住宅らしきの仕事から離れ過ぎたなの反省もある。
開放系技術の考えは住宅に関するモノでは決してない(※13)。もう少し広々としている。そうであって欲しい。しかし、逆説の匂いが我ながらしないでも無いが、住宅を含むモノでなければ空理空論に終るであろう。それが人間のためのモノや考えのデザインに関わる理論(※14)の枠組みである。人間のため、生きるためのモノ(※15)に関わろうとする者の基盤でもある。
今、今日お目にかかるであろう依頼主との話しの枠組みを想定し始めている。そしてこの想定そのものが開放系技術論のはじまりそのものであるのを確信した。それ故にその想定自体を広く、それこそ開放するのが良いと考えるに至ったのである。
東日本大震災後、三陸海岸気仙沼市の安波山鎮魂の森計画も、この三月には始動できるまでにこぎつけた。安藤忠雄さんの支援無くしては実現できぬものであった。気仙沼の人々と共に安波山お色直し100年計画とも呼ばれるデザインに参加するが、コレも又広い意味では開放系デザインの実行(※16)でもある。
3月1日 石山修武
※1 ル・コルビュジェの「小さな家」(1925)、ロバート・ヴェンチューリの「母の家」(1963)、毛綱毅曠の「反住器」(1972)など、近代建築史において建築家は母の家を建築家の母の家であることが持つ枠組みを表明せざるを得ない宿命の中で戦ってきた。それは建築家の自邸にその表明の場が代表される、自身の後天的思考の結晶を自己相対化するためのツールとして「母」という具体を扱うことに大きく拠っている。石山は母の家をその構造の外に持ち出すことから始めることを意図していたと思われる。
※2 開放系技術論のルーツの一端は川合健二のドラム管の家での実践と歴史家・渡辺保忠の「工業化への道」に代表される理論を結びつけるところにある。石山は度々レヴィ・ストロースのブリコラージュやB.フラーのジオデシック・ドームなどに言及しながらその断片を述べてきた(『生きのびるための建築』NTT出版、2010年 など)。1999年のギャラリー間での「開放系技術世界」展でも示されたように、「ひろしまハウス」と「世田谷村」での実践において結晶化させつつあったその理論体系は、常に現在進行形の状態を思考のモデュールに包含するところにも開放系と名付けた構造が宿っている。
※3 柄谷行人は『建築がみる夢』講談社、2008年 の収録論文「石山と私」において石山の世田谷村の活動を建築家世界の中で「唯一ほっとした」と評している。その真意は実行家としての建築家像にあった。
※4 2008年のジャズ・ミュージシャン坂田明との対談の中で、2013年の世田谷村の模型を眺めながら「人間は理屈では生きられない。理論は生活に負けちゃう。」と二人は談笑混じりに合意している(その様子は2008年8月1日、NHK「新日曜美術館」で放送された)。その笑いには趣味・生活は時に理論を超えていく、つまり「理論らしきは実人生よりも高次なモノである」と考える自己を笑うことの必要性、もまた未完の状態を胚胎する開放系技術の実践の基盤にあることを体現していた。
※5 2012年3月1日、13時より15時30分まで最初の打ち合わせが行われた。ここから既に開放系技術の実践のドキュメントは始まっている。
※6 この文意での「住宅の設計」という語彙には、いかに建築を定義付けるかという近代特有の意識が建築家たちにあった歴史的背景がある。
※7 世田谷村は分割分離発注方式によるマネージメント及び多能工と名付けた職種を横断する職人や素人集団によるセルフビルドによって建設された。石山自身が住みながら手を加えていくため、現在も未完の状態にある。
※8 注1に記した建築家にとっての母の家の枠組みを外すことには、石山にデザインが私より下手だと言い放つ母の存在が中心にあった。その詳細は絶版書房・アニミズム紀行1号、及び本サイト新制作ノート「母の家始末記」、「音の神殿10-13」などを参照のこと。
※9 母の家は、倒れた母の生命を維持させる母の部屋の設計から始まり、搭状の建築が複数並ぶ形式に至っていた。

※10 ひろしまハウスはレンガ積みツアーなど、世界中からの有志による自力建設によって10年の歳月をかけて建設された。その通底には、設計施工はもとよりタイのビルディング・トゥギャザーやフィリピンのフリーダム・トゥー・ビルドの精神がある。
※11 注4に記した番組を制作した施主であり、これは2008年世田谷美術館での「建築がみる夢」展に併せて制作された。
※12 三脚を使わないハンディ撮影によるドキュメントであり、早朝のひろしまハウスがメコン川向うからの朝日で次第にメコン色に染まっていく様を表現したりもした。
※13 ここのところは注6と併せて重要な問題を孕んでいる。石山はそのために母の家を超小型建築と呼んでいた。
※14 民俗学に代表される人間の佇まいを学問する姿勢との接続が建築における今日的命題の一つであろう。住宅はその舞台として最もわかり易い表現である。
※15 「モノ」の語意には、その語源がマナリズムのマナであるとする中西進の説がある。折口信夫が言霊研究で音に宿るアニマを提示したように、人の佇まいそのものを指す。そのためモノは単なる物ではなくモノでなければならない。
※16 小林秀雄は『無私の精神』の中で「実行家」という概念を提示する。そこには実践の中に理論がある本来の創作行為にあるべき姿勢がある。
注釈:渡邊大志