石山修武研究室の読み物

世田谷村日記

絶版書房

開放系デザイン、技術ノートI
キルティプールの丘にて我生きむ
アニミズム周辺紀行5
受付中

「何故、今アニミズムなのか
 アニミズム周辺紀行4」
絶版となりました

建築がみる夢
『ひろしまハウス』
ひろしま・
レッドクメール・
備忘録として
アニミズム周辺紀行3
絶版となりました

新 制作ノート

石山図書館

裏日記

確信犯的コラム 2009

確信犯的コラムという、とりあえずは小見出しを思い付いたのは、頭の中に敬愛する建築家渡辺豊和のイメージがあった。日本近代の、特に近代建築家には信念らしきに生きた人間はほとんどいない。そう言い放ってよろしいかと思う。ほとんどが西欧近代の受売り商売に生きた。

渡辺豊和は、今ではほとんど忘れ去られていると思うが、わたくしは近い時間では最も信用できる創作者であった。馬鹿な事も多くしたが、その本来の心性は、日本近代ではまれな特質を顕していた。

だから、要するに確信犯というのはボンヤリどころではなく、ハッキリと渡辺豊和をイメージしていた。外国で確信犯的な建築家らしきもそれ程多くはないが、やはりユダヤ系の建築家にそれは多いようだ。近くで言えば、P・アイゼンマン、意外ではあろうが、ユダヤではないがP・ジョンソンなんかも、骨太い確信犯であった。むしろ、P・アイゼンマンみたいな単純な者よりも余程、骨太な確信犯であったかと考える。日本では、そう、誰だろうか。P・ジョンソンらしきをあげれば、当然磯崎新だろう。

磯崎新は俗論では最も相対的な動きを示す、近代建築家であると考えられている。しかし、わたくしは磯崎は日本近代に於いてはたぐいまれなる、ほとんど奇跡とも思われる程に、歴史に自意識の強い、すなわち本格的な確信犯的建築家である。日本という、近代建築を創作するに、最も困難な場所に彼は生きた。実ワ、その事は本人は充分に意識している。あの大意識家の磯崎新がである。建築の世界史的フィールドで考えれば、「建築」というフィールドそのものがヨーロッパのモノであるのだから、磯崎みたいな意識的な創作家ははなから、とてつもないハンディを背負っていた。それを自覚できていたのは、堀口捨己であり、間を置いて磯崎新であった。他は、それを教養として理解していた。そして商売にはげんだ。

で、本題に戻る、とりあえず磯崎新とは離れる。わたくしの、つまらぬコラムを確信犯的コラムというのには、少々はばかる気持があるので、修正したい。率直に。で、確信犯的平安コラムとタイトルを変えたい。ズーッとタイトルを変えずに行ける程、わたくしはどうやら強くはないから、時々、タイトルは変える。

100318

絶版書房をはじめて、読者からのメール注文を受けるようになり、メールが無ければ絶版書房は成り立たぬのは知ってる。以前、まちづくり支援センターというのをやっていて、いわゆるダイレクトメールの切手代、通信文の印刷代、封筒代などのコストがかなりかかるのを知っているからだ。メールは0コストに近い。これは実に革命なのである。

が、しかし。時にあっ、この人は手紙を書いてみたいなと思う事がある。メールは瞬時に相手にメッセージが届いているが、どう読まれているかはわからない。そういうモノである。

確実に読んでもらいたい、あるいは想いを伝えたいのは、やっぱりわたくしは手紙が一番なのである。

手紙がよいのは、届くのに時間がかかる事である。ああ、もう着いたかな、読んでくれたかなと想う時間があるのが良い。

しかし、である。どうやら時代は革命期にある。古い形式にこだわり過ぎたら置き去りにされるのも必定である。逆に巻き込まれ過ぎても馬鹿を見るのはそれこそ歴史が繰り返し教えてくれている。皆が一気に一緒に走り出しているのは実に危険な前兆でもある。

それで、メールと手紙の併用をする事にした。それにメールには書けない事もある。メールは必らず何者かが監視できるシステムになっている。本当の自由はない。自由と本音とは勿論ちがうけれども、自由を表現するのには、ある程度のコストはかかるものなのだ。

大きな事、言ってるけど、切手代の 80 円の事を言ってる。

100317

テーブルの上においた一万円札が朝起きたら姿が見えない。書類のゴミにまぎれたかと、探すも無い。わたくしは気が小さいところがあって、いずれ出てくるさと、おおようではいられない。気になる。

猫の白足袋が近くであらぬ方向を眺めていた。

「タビ、お前知らんか」

と尋ねた。こっちを一瞬向いて、スグに眼をそらした。再び、あらぬ方向を眺めている。

「お前だな。タビ。金はいかんぞ、すぐ出せ」

とたしなめた。

「知らん!あんたの金なんて隠したって、猫様の俺には何にもならんのは、アンタも知っとるだろうが。猫社会はすでに資本主義を超えているんだぜ」

とヤケにまともな事いいやがった。

「出せば朝メシ、倍やるぞ」

「メシの問題じゃニャインだよ。アンタの片付け方がなってないのを反省しろ」

生意気な事を言いやがった。

こいつが犯人である。

まえにも、大事に使っていたモンブランの万年筆が行方不明となり、ガッカリしていたら、気の毒に思ってくれたのだろう、代りのモンブランを一本くれた友人がいる。でも今度は一万札失くしたって、言うわけにはいかない。それで友人が一万札をくれる訳もない。それ位の道理は知るのである。モンブランの万年筆を失くして、ガッカリしているのは、少しは人間として様になるようだが、一万札を失くして、気落ちしているのは実に格好悪いのだ。アニミズム的偏愛は許されるが、金へのフェティシズムは嫌われる。

そこらの機微をうちの白足袋はいつか知ったのである。で、隠す対象を万年筆類から、マネーに変えたのだ。

白足袋は外に出ない猫である。ほぼズーッと室内で暮している。わたくしと二人で居る事も多い。猫なりに色々と七面倒くさい事を考えるのであろう。ストレスもたまるにちがいない。仕方ない、猫が発狂するよりはお札失くした方がまだましだ。

と、一応、おおような振りを猫にはしてみせた。でも、チクショー、必らず、お前の秘密の隠し場所はいつかきっとつきとめるぞ。

100316

送っていただいた年報都市史研究17「遊廓社会」読む。網野善彦の異形の王、他:いわゆる網野史観と呼ばれている中心の一つに非定住者、遊行民、白拍子、遊女への視点があるのは良く知られているが、このテーマが都市史的表われ方をすると、こうなるのかと知った。論者の少なからぬが、遊廓社会のシステムとネットワークの「成熟」と表現されているが、その内実が良く解らない。広末保の悪場所の思想だったかな、の印象を興味深く読んだ記憶があるが、その記憶と比較すれば随分実証的な着実さが良く解るが、そのぶん全体の枠組がわかりにくいような気がした。全ての論を読んだが、娼妓(芸妓)の出身地が調べられているものがあり興味深かった。

遊廓社会は現代の芸能社会と裏社会(ヤクザ社会)が興行権を中心に結びついているのと同様に、当然日本の近代化の暗部としてある意味では正統アカデミーの歴史中でも封印されてきたきらいがある。都市史研究会がかくなる研究を公にされているのはその意味では実に画期である。しかし、娼妓社会研究はつまるところ渡来人の場所の問題にもかかわらざるを得ないだろうと思う。究明はほとんど不可能であろうが、娼妓そのものの生い立ちと都市への流入の図式があるのではないか。出生地への言及を読みそう考えた。

何より驚いたのは女性研究者の「遊廓社会」研究への参画者が多い事である。女性研究者にとって娼妓(売春婦)の研究は歴然として男性研究者の観念性を超える可能性を持つものと考えられる。

吉田ゆり子氏の「幕末維新期における横須賀大瀧遊廓」がその意味でも面白かった。

日本の近代化の中枢であった西欧への開化、そしてネガティブな政策、外圧による女性贈与とも考えられる事実が、この研究から一端をうかがい知る事ができる。

「失われた飯田遊廓の建築」伊藤毅のまとめで述べられているような、地・場・楼・座敷の多層的なレイヤーの重ね合わせの概念は、「囲われた社会の閉鎖性と、それとは対比的な内部の流動性と匿名性は、こうした均質な多層平面によって下支えされている」という伊藤の視点が、外国人居留地(あらゆる意味での)と遊廓的場所の日本近代の必然性といった問題と関係づける事ができれば、新しい都市史的視点からの日本近代化論のようなものが視えてくるのではないか、と考えた。

「年報都市史研究17 遊廓社会」都市史研究会編 山川出版社発行

100315

神田に「岩戸」という料理屋がある。名の通り宮崎料理、そんなのが正式にあるのかどうかは知らぬので、宮崎の味の料理屋である。最近の宮崎はあの東国原知事以来、とかくTVのお笑い番組風に浮いた話が多い様だが、この店に行くと全く違う、本来の宮崎らしい、良い意味での保守性の強い県民性が良く味にも店のたたずまいにもあふれている。

この店を知ったのは友人の僧侶馬場昭道による。昭道さんは千葉県我孫子市新木の真栄寺の住職である。新木真栄寺の本院は宮崎の大寺真栄寺の分院である。浄土真宗の寺だ。昭道さんとわたくしは宮崎市の真栄寺で出会った。死んぢまった佐藤健の引き合わせであった。記憶も定かではないけれど、佐藤健の取材らしきに便乗して、わたくしも宮崎へ遊びに行った事があり、その時宮崎空港に迎えにきたのが昭道さんであった。真栄寺に行くまでに、何処であったか、無茶苦茶に熱い温泉につかってから行ったのを憶えている。湯に入ってしまうと、動けぬ位の熱湯であった。宮崎というのは熱い、何しろ熱いという印象が植えつけられた。温かいではなく、熱いのである。

岩戸の料理は熱くはない。程良く温好で保守中道である。特にフグ料理はうまい。最後に出る汁飯のうまさは絶品である。しかし、決してユニークな、新しモノ好きの味ではない。又、京料理の気取りも、見た目を追う華美さも無い。それこそ、素材の味をドスーンと生かした正攻法の店である。

実は、この「岩戸」での料理を一番楽しんでいるのは他の誰よりも昭道さんである。千葉に檀家0からの新しい寺を興し三〇年近くになる昭道さんが、消しても消しても消えはせぬ、望郷の念から故郷の匂いを嗅ぎに、時にわたくし達を誘って、楽しみに来ているのである。

千葉の我孫子、新木の当りは典型的な東京の新興住宅地である。まだ残る田園らしきの中途半端さとあいまって、凄惨な位に荒涼としている。ここを訪ねる度に、昭道さんは宗教家としての本業の直観をもって、新しき寺のサイトを選択したと痛感するのである。何処も、千葉に限らず、東京周辺の新興住宅地の風景は荒涼とした無惨さを持つけれど、ここは実にその筋金入りのエリアなのである。

宮崎の大寺の豊かな環境に育ち、若い頃は数年にわたり世界を放浪し歩いた昭道さんがそれに気付かぬ筈がない。体力、気力も充二分にタフな昭道さんでも、あの風景の荒涼さは知らず知らずに浸触している筈である。秘境ラダック・ザンスカールチベット文化圏の高地で、深夜星と語り合うロマンチストでもある昭道さんに耐えられる筈がない。人間は風景によって気持の多くを育てられている現実に気付かぬ者でもある。

まあ、その悪さについては、語りだしたらキリはない。で、昭道さんは千葉の新興住宅地の荒涼とした気配に耐えられなくなると、「岩戸」に出掛けるのである。

ここらあたりつまり千葉の新興住宅地にはもう農業者らしきはほとんど存在していない。農によって喰べている種族は皆無である。全部が半農である。だから、田畑の風景に、これで喰べている、つまり生き抜いているという生産的な気配が著しく欠けている。そして、風景の基軸を構成してい戸建住居群、あるいはアパート群は完全なヤドリ木暮しの本性を赤裸々に露出しているのである。共に、ここに生きている必然に著しく欠けているのだ。坂口安吾は日本文化私観で、京都も奈良も焼けて結構、我々には生活の必然だけがあれば良いと言ってのけたけれど、その焼け跡がまさに現実のものとして在るのがここの風景なのである。安吾だって鼻白らむのではないかな、この風景には。

わたくしは友であった佐藤健が隠れ家としていた酔庵に度々滞在した事がある。真栄寺から間近の住宅団地の中にそれはあった。そこで、年の暮、二人でゴロゴロ酒を飲みながら、アメリカのやらイタリアのやらの西部劇を見ほうけていたりが気に入っていた。荒涼と荒涼とが混じって何とも言えずの無惨さが、風の如くに吹き渡るのを感じた事もあった。黒沢明の用心棒の舞台になったホコリ風に吹きさらされた荒れた村のようなそんな気配であった。

佐藤健も昭道さんと同様に、何故だか極度に宗教的な人間であった。ここで宗教的というのは、自分の中に救いようのない荒地を抱え込んでしまったとでも言おうか、それを招き寄せる我の妄執から逃れられぬ者なのであった。そんな意味では佐藤健は、昭道さんよりもはるかに宗教的な人間であった。

佐藤健が真栄寺近くに隠れ家を持ったのは、勿論近くに馬場昭道が居たからだ。彼は昭道さんを口では馬鹿にして、けなしていたけれど心底では、「アレは晩年名僧になる。日本の仏教の宝だ」と迄言っていた。

この二人の宗教人間を何故、千葉のここら辺りの新興住宅地は引きつけたのであろうか。それは、ここが無明の地だからである。メラメラと永劫の業火が燃えくすぶっているわけではない。血の池地獄があるわけではない。しかし、この地に生活する人間の存在の力を信じたいけれど、その棲家への棲み込む余地への愛着らしきには疑問が残る。

ここは、戦後日本の風景そのものの廃墟なのである。馬場昭道は宗教家としての直観で、だからここに新しい寺を建立、つまり都市開教による仏教再生を立てようとした。

100312

うちの前、つまり南のかなり広い梅林の梅の樹がかなりの数切り倒された。でも道側の一列の梅の列が残されていて、それがありがたい。よくよく眺めたら西端と東端に、それぞれ紅梅、白梅の老木が一本づつ残されていた。

切り倒した人も仲々味なことをしたものだ。できる事ならばこの一列の梅の樹八本程はこの後も二、三十年残っていて欲しいものだが、相続やら何やらで、その運命も定かではないだろう。

ことほど左様にうちの廻りは税金対策と小資本の合理的運用の現実の中の風景になっている。わたくしの家だって、いずれその渦中に入るのだろうから、批判などはできない。人それぞれの生活がある。梅林の地主だって自由な権利がある。

だから、そう覚悟さえすれば、この一瞬に残された梅の全てをたんのうすれば良い。花鳥風月の日本という決まりらしきは好きではない。しかし、このような社会的な花鳥風月らしきが、今、眼の前に浮上しているのを知る。

梅の花の美しさ、風が運んでくる微かな香りも又、社会的産物なのである。他人のうちの梅の姿を楽しみ、その香りに、アアと思う。これは実に不思議極ることなのだ。生き残った十数本の梅の隊列と紅梅、白梅の対の配布。これは地主のある種の考え抜いた表現行為なのだと考えたい。立派な事である。

うちの庭の梅、大きな奴は今年は花の数が少ない。

昔、飼っていたうさぎのつとむが猫にかみ殺されて、その身体をこの梅の樹の下に埋めてある。

このところ、つとむの墓らしきに線香の一本もあげずに、すっかり忘れてしまっていたので、この花の不作はつとむの、きっとシグナルにちがいない。忘れないでくれよ、という。

人間も動物も梅の木だって、想われている間は居なくなっても生き続けるものだ。梅林の姿が変わって、死んだツトムの事を思い出すことができた。

ここで、ありがたいことだと書いてしまうと、南無阿弥陀仏の世界に入るので、それはしない。

100305
OSAMU ISHIYAMA LABORATORY (C) Osamu Ishiyama Laboratory , 1996-2010 all rights reserved